最新 hohiのPali語学習・作業記録

最終更新時間: 2015-06-29 12:47

Satipaṭṭhāna Vipassanā

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw によ る"Satipatthana Vipassana"を訳してみたものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


目次

翻訳者のまえがき

ウ・ヌ首相とBuddha Sasananuggaha Association会長 Thado Thiri Thudhamma ウ・テュウィン卿らのじきじきの要請で、マハーシ・セヤドー— 尊師ソーバナ大長老— は 1949年11月10日にラングーンのシュウェボにいらっしゃいました。 ラングーンHermitage Road(修道通り)Thathana Yeikthaの瞑想センターは1949年12月4日に正式にオープンし、その時マハーシ・セヤドーは15人の信者に正しいSatipaṭṭhāna Vipassanā(サティパッターナ・ヴィパッサナー) 体系の修行法を教え始められました。

センターがオープンした最初の日から、Satipaṭṭhāna Vipassanā(サティパッターナ・ヴィパッサナー)の解説の法話、その目的、実践方法、その恩恵などが、徹底的なトレーニングのコースを受けに毎日のように絶えずセンターにやってくる信者の一群ごとに教授されました。 法話は通常1時間半続き、このような法話をほぼ毎日行うことはセヤドーをお疲れさせていました。 幸いなことに、状況を改善するためにテープ・レコーダーを寄贈することをBuddha Sasananuggaha Associationが申し出てくれて、トレーニングを受けにきた15人の信者に向けてなされた1951年7月27日の法話が録音されました。 その後は、この録音された法話が日々定常的に用いられ、その前にマハーシ・セヤドーによっていくつかの予備的な注意がなされるようになりました。

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Thoughts on Dhamma (8/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


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Contents


ヴィパッサナー瞑想 (Insight Meditation)

ありのままに見る智慧 (Insight Knowledge)

ありのままに見る智慧(vipassanā ñāṇa)は、心と身体 (nāma-rūpa)の作用が 無常(anicca)、 苦 (dukkha)、無我 (anattā).であることを観察することで身につきます。それは軽く観察するだけでは得られません。作用が起こっているのを、なおかつ観察されないものが何一つないように、深く観察して得られるのです。このように、見る、聞く、嗅ぐ、食べるなどの全ての動作を、それが起きている時に、そして何一つ観察し損なうことがないように、 観察すべきです。

— Discourse on the Hemavata Sutta


稲妻の閃光 (A Flash of Lightning)

稲妻の閃光を見る、としましょう。稲妻が光る瞬間に見るならば、自分自身で見ることになります。心のなかで、その前後に稲妻が光るのを想像するならば、その稲妻の閃光を実際に見たことにはならないでしょう。 ですから、物事が起きている時に実際自分自身で観察して知るように努めましょう。

— Discourse on To Nibbāna via the Noble Eightfold Path

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Thoughts on Dhamma (7/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


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瞑想 (Meditation)

瞑想者への指示 (Instructions to the Meditator )

気づきを育て、ヴィパッサナーの智慧を得るためには、次のポイントをしっかり憶えなければなりません:

  1. 全ての身体の動きを、それが生じた時に、正しく認識すること
  2. 全ての心の動きを、それが生じた時に、正しく認識すること
  3. 心地良い、不快な、どちらでもない、感覚全てを、それが生じた時に認識すること
  4. 心の対象を、それが生じた時に、分析する心で知ること

— Discourse on To Nibbāna via the Noble Eightfold Path


実践を通じて深まる智慧 (Knowledge Deepens Through Practice)

もし道を実践して自分で直接に経験するならば、時間とともに智慧が深まるのが普通です。

— Discourse on The Wheel of Dhamma


始めたばかりの時の疑念 (Initial Doubt)

瞑想をしたことが無い人は疑念を持つかも知れませんし、それは無理もないことです!見たものしか信じないことと、そういう懐疑は経験がないからなのです。私自身も懐疑的な時もありました。その時は、nāma, rūpa, anicca,anattā などに言及しない Satipaṭṭhānaの方法を私は好きではありませんでした。けれども、その方法を教えていたセヤドーは学識のある僧でしたから、試してみようと私は決めました。 最初はほとんど進歩しませんでした。なぜなら、究極の現実とは関係ない方法ではないか、という疑念がまだもやもやしていたからです。

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Thoughts on Dhamma (6/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


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集中力 (Concentration)

集中力の必要性 (The Need for Concentration)

聞いている人に対して、瞑想する対象に集中するのではなくて、心を勝手にさせてリラックスし続けるように教える指導者がいます。彼らが言うには、集中すると心を制限してしまうからだとか。これは、ブッダの教えのように見せかけて、ブッダの指導の違反をしているのです。もしも、そういう指導者の言う通りに心を勝手にさせておけば、好きな思考にふけり、感覚の喜びに夢中になるかも知れません。

— Discourse on the Hemavata Sutta


サマーディ (SamāDhi)

samādhi — 心の集中 — は必要無いと言う人がいます。もし八正道の二つの(智)慧の面、すなわち正見(sammādiṭṭhi)と正思惟(sammāsaṅkappa),を深く考察するならば、生滅することに気付く必要がない、と。これは、samādhiの領域を飛ばしてしまうことです。jhāna-samādhiがまさに得られるならば最も善いのですが、もし上手くいかないならば、瞬間的な集中力(khaṇika samādhi)を身につけるべきです。これは近行定(訳注 upacāra-jhāna)と同等のものです。そうでなければ、それは本当のありのまま見る智慧ではありません。ブッダは言われました:

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Thoughts on Dhamma (5/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

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戒律 (Ethics)

ダンマの光 (The Light of Dhamma)

戒、定、慧 (sīla,samādhi,pañña)が(仏)道へ導くことが出来るのです。 しかし、教えに納得したなら戒律を守る必要がないと言い張る人がいます。こういったリーダーらによっ て、その支持者のためにシンプルで、あるいは簡単な方法を考案したなどと提唱されることがしば しばあります。何と奇妙なことでしょう! ブッダの時代には、ブッダの説教を聞いた瞬間にダンマ の光をただちに見た、知性と分別のある人々がいた例を否定することは出来ません。もちろん、簡 単な解説で四聖諦の意味をすぐさま理解できてしまうugghaṭitaññuや、あ るいは広く解説されたことを聞いて真理を理解できてしまうvipañcitaññu のような天才的な人々もいました。ブッダの時代には、そういった人々はブッダの教えを聞いてい る間に、それほど努力せずにダンマの光を得ました。けれども、普通neyyaの人々のことと なれば、段々と真理を理解していくよう指導されなければなりません。ブッダ自身でさえも、すぐにはダン マの光を見ることはできませんでした。ですから、次に挙げた経典ダンマパダの276偈は、ブッダに 教えられた通りに、よく覚えておきましょう。詳細な意訳です:

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Thoughts on Dhamma (4/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

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五蘊の重荷 (The Burden of the Aggregates)

重荷 (The Burden)

重荷とは何でしょうか?khandhas蘊3が重荷なのです。

誰が重荷を受け入れようとするのでしょうか? taṇhā, 渇愛が重荷を受け入れてしまうのです。

その荷物を投げ捨てることが意味することは何でしょうか? taṇhā の消滅が、そ の荷物を投げ捨てることです。

重いのは五蘊 khandhas.の荷物です。

その荷物を受け取ることが苦です; その荷物を受け取らないことが、幸せに導くのです。

渇愛が、まさに土台から根こそぎ引き抜かれたならば、何の願望は起こりません。古い荷物は傍 らに置かれ、新しい荷物を負わされることはありません。

こうして、Nibbāna、永遠の平和の(確固とした)煉瓦作りの家に入ります。

— Discourse on the Bhara Sutta


この荷の重いこと! (How Heavy Is the Burden!)

この荷のなんと重いことでしょう!人が母親の子宮にはらまれた時、世話しなければならない五 蘊がその人に現れるのです。人間として立派に育つように安全に生まれることが出来るようにと、母 親はその子を当然のように全てから守ります。母親は日常の仕事の時、食事の時、眠っている時など ずっと注意しなければなりません。もし母親が仏教徒であれば、生まれてくる子供のために善行為を するでしょう。

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Thoughts on Dhamma (3/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

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ダンマ (The Dhamma)

真理は一つ (One Truth)

本当に、真理は一つで、不可分でなくてはなりません。このことは心にしっかり覚えておかなければ なりません。近頃は仏法が広く知られていますが、中道、あるいは、八正道に関する教えには、ただ 一つの基礎となるものがなければいけません: 戒・定・智慧の実践と四聖諦です。けれども、ある人 が、実際のダンマの実践に頼ることなく仏教の目的と狙いに達することが出来ると説くならば、私達 は、そういう人は道から外れていると理解するべきです。

— Discourse on To Nibbānavia the Noble Eightfold Path


実践の必要性 (The Need for Practice )

最近、ブッダが実際に教えたことに対しての間違った所説が話題に上りました。それによれば、『智慧は完成した』、そして『いったん智慧が得られたならば、誰もダンマを実践する必要はない』と。こういった所説は、実質的にダンマの実践を拒否すること、そして八正道を否定することになります。実際には、八正道は絶え間なく実践しなければなりません。というのは励むべき(bhāvetabba)修行のセットだからです。そして、それによって仏道の本質に対する洞察力を高めることが出来るのです。努力なしに、自然にやってくるものはありません。それから別の所説として、努力そのものが dukkhaつまり苦であり、それゆえ修行にはげむべきではない、と間違ったことを勧めるものもあります。こういった教義を目の当たりにして、わざわざ八正道に沿って瞑想したり教義を実践したりする者がいるでしょうか。ダンマを実践する者がいなければ、どうやって彼にダンマの光がそそぐと言うのでしょう。そのうえ、仏道の本質への洞察力がないままで、どうやって汚れを取り除き、涅槃の安らぎを得られるというのでしょう。

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Thoughts on Dhamma (2/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

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マハーシ・セヤドー

マハーシ・セヤドー1としての方が良く知られている、ウ・ソバナ大長老は、ビルマ最後の王朝創設の時の首都であった北ビルマのシュウェボから10キロほどのセイックン村で、小作農を雇っている地主のウ・カン・ホゥターとダウ・シュウェ・オクの間に、1904年7月29日にお生まれになりました。

6歳で、村の寺院の学校での勉強を始め、12歳でsāmanera(沙弥)になりソーバナの名を受けられました。20歳になる1923年11月26日にbhikkhuになられました。続く三年間で国の三つのパーリ語試験(初級、中級、上級)すべてに合格されました。

比丘出家されて4年目で、セヤドーは仏教徒の勉学で名声の高いマンダレーに向かわれ、そこで様々な高僧の方々のもとでさらに勉学を続けられました。(出家されて)5年目に、セヤドーはモウルメインに行かれ、タウン-ワイン-ガライ タイク キャウンとして知られる寺院で仏典を教える仕事に従事されました。

比丘出家して8年目に、セヤドーともう一人の比丘は、比丘の最低限の必需品のみ(鉢と三衣など)を持ってモウルメインを去り、明解で効果的な瞑想の実践法を探して廻りました。タントンで有名な瞑想指導者である、ウ・ナラダ尊者に会われました。尊者はミングン・ジェタウン・セヤドー一世としても知られています。ミングン・セヤドーから指導を受け、同時に瞑想を徹底的に励まれました。

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Thoughts on Dhamma (1/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

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序文

この本を準備しているさなかに、この本の著者である、ビルマの尊師マハーシ・セヤドーは78歳でお亡くなりになりました。こうして、意図せず — 死というものはいつもそうですが — この本はテーラワーダ仏教の、特にヴィパッサナー(Vipassanā)瞑想の分野で、傑出した同時代の指導者のお一人へ敬意を表する追悼という形になりました。お亡くなりになる少し前から、セヤドーはご自分の、特にヴィパッサナー瞑想についての考えと観察を編纂することに同意していることを伝えておられました。


ここに集めたものは、色んな経典(ブッダの教え)について扱ったマハーシ・セヤドーの説法からとられています。説法はビルマ語でなされ、様々な人の手で英語に翻訳されました。それらの英語訳を含む7冊の本は、1980年にBuddha Sasana Nuggaha Organization of Rangoon ("Sasana Yeiktha") から出版されました。それら7冊から選んで抜粋し、この選集で再掲する寛大な許可を頂きました。ここで選んだものは、若干編集してあり、またそれぞれの抜粋には出典を記してあります。セヤドーの簡単な伝記もこれに含めてあります。

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「この瞬間がすべての幸福— Present Moment, Wonderful Moment」

[][瞑想]

ティク・ナット・ハン師のPresent Moment, Wonderful Momentを星 飛雄馬さん翻訳されたものです。本の表紙

職場での出来事で乱れる時が多いな、日常の気付きが上手く出来ないな、と思ってヒントになるものはないかと探していたところに、原書のサブタイトルが目に止まりました。それはは"Mindfulness Verses For Daily Living"、「日常での気づきのガーター」という意味あいでしょうか。早速、原書を読みはじめたところに、星さんが翻訳を出されることになりました。(なんという偶然でしょう。)

この本は、私達の日常のやることに関する全部で53の偈(ガーター)が詠まれ、それぞれに短いエッセイ風の法話が書かれています。

日常の気づきのヒントがたくさんあると思います。

70ページから:

「息を吸い、私は自分の身体を鎮めます」「息を吐き、私は微笑みます」これを三回繰り返しま す

座る瞑想のまえに、これをするととても穏かに瞑想を始められる時があります(そうでない時もあるのですけどね…)。

…そして自分自身に「もし私が今平安や喜びを感じないなら、いつ平安と喜びを得ることができるだろう?明日だろうかそれともあさってだろうか?何が原因で今この瞬間幸せになれないのだろう」と尋ねてみましょう。

落ち込んでる時や、怒っている時は、このように問題をよく観察して、なにが本当の問題なのかをはっ きり認識することが大事だと思います。

うまく瞑想が出来ないときには、原因を瞑想の対象にすることを思い出させてくれます。

瞑想の時はもちろん、朝目覚めてから、トイレ、手を洗う、服を着る、お風呂に入る、食卓の準備をする、食事をする、皿を洗う、電話をする、テレビをつける、掃除をする、車を運転する、これら日常での私達が行うことに気づくためのガーターが優しい言葉で詠まれています。

172ページからの「気づきのある食事とは」を読んで、普段の食事の時をとても反省させられます。

呼吸をしたら、微笑みます。他の人たちと一緒に食卓を囲むときは、真の友愛の微笑みと理解を 表すチャンスです。それは大変簡単なのに、そうしている人は少ないものです。

食事の時こそ家族全員が集まる時です。我が家でも、まず食卓に座るところから実践しはじめました。

この本のガーターを日常の瞬間・瞬間で思い出し、気づきを絶やさなければ、幸福な瞬間が連続する ことになるわけです。でも実際には「忙しさのあまり、自分が今やっていることを忘れたり、自分が 誰なのか、忘れてしまうことがあります。」(6ページ)そんな時でも、この本のタイトル「今の瞬間 が全ての幸福, Present Moment, Wonderful Moment」を思い出して、気づきに優しく戻せるように努 めようと思わせてくれる本です。

こうやって、引用しているとよく分かりますが、訳もとても自然で優しい日本語です。星さんのお人柄と、ティク・ナット・ハン師への尊敬の念がうかがえます。



初出: Sat January 19 2008 21:34 (+0900)

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歩く瞑想の効用

[法話メモ][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるSayadaw U Silananda による"The Benefits of Walking Meditation"を訳してみたものです。

Sayadaw U Silanandaについては こちらをどうぞ。


私達の瞑想のリトリートでは、瞑想者は気付きを四つの異なる形態で実践します。歩く時、立っている時、座っている時、横になっている時に気付きを実践します。どんな姿勢であってもずっと気付きを持続しなければなりません。気付きの瞑想の主要な形態は足を組んで座っているものです。けれども、人間の身体はこの姿勢を何時間も変えずに耐えることは出来ませんから、座る瞑想と歩く瞑想とを交互に行います。歩く瞑想はとても重要ですので、その性質、その意義と、その実践から得られる効用についてお話したいと思います。


気付きの瞑想の実践は、お湯をわかすことに喩えることができます。お湯をわかしたいなら、やかんに水を入れて、こんろにかけて、そして火をつけます。けれども、火の熱を止めたら、それがちょっとの間でも、そして後でまた熱を加えたとしても、水は沸騰しないでしょう。もし、熱を加えたり、止めたりを繰り返し続けるなら、水は決して沸騰しないでしょう。同じように、もしも気付きにとぎれがあれば、勢いを得ることが出来ず、集中も得られません。この理由で、私達のリトリートでは瞑想者は起きている間はずっと気付きを実践するように指導されるのです。つまり朝起きてから、夜に眠りに落ちるまで。こうして、歩く瞑想は、連続して気付きを育てるために不可欠なのです。


あいにくですが、私はある人が歩く瞑想を批判しているのを聞いたことがあります。そういう人によれば、歩く瞑想からは、効果や良い結果を何も得られない、と。けれども、最初に歩く瞑想を教えたのブッダ自身なのです。大念住経でも、ブッダは歩く瞑想を二回教えています。「姿勢」と呼ばれるセクションでは、比丘は歩いている時「歩いている」と知っている、立っている時「立っている」と知っている、座っている時「座っている」と知っている、横になっている時「横になっている」と知っている、と語っています。もうひとつの「正知」のセクションでは、「比丘は前に進むのと後に進むのを正知している」とブッダは語っています。正知とは観察したものを正しく理解することを意味します。観察したものを正しく理解するには、瞑想者は集中力を得なければなりません。集中力を得るには、気付いていなければなりません。それゆえ、ブッダが「比丘たちよ、正知しなさい」と語っている時は、正知するだけではなく、気付きと集中することでもあることを、理解しなければなりません。こうしてブッダは瞑想者に歩いているとき、「前と後に進んでいる」ときに、気付きと集中、そして正知しなさいと指導していたのです。ですから歩く瞑想はこのプロセスの重要なパートなのです。

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呼吸の瞑想の基礎指導

[法話メモ][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるThanissaro Bhikkhuによる"Basic Breath Meditation Instructions" を訳してみたものです。

Thanissaro Bhikkhuの経歴は こちらです。


これからお教えする方法は、呼吸の瞑想です。あなたがたの宗教的なバックグラウンドにかかわらず、これは良いやり方です。私の先生が言っていたように、呼吸は仏教やキリスト教や、そして他の全てのどの宗教にも属していません。呼吸はだれでも瞑想できるごく普通の道具です。同時に、どの瞑想のなかでも、多分身体には最もよいものです。というのも、呼吸を扱うということは、肺に入り、出る空気を扱うだけではなくて、呼吸のたびに身体中を巡るエネルギーの感覚をも扱うことになるからです。もし、そういった感覚に敏感になることや、それらの流れをスムースに淀みなくさせることを覚えると、身体の機能をより高めることができ、痛みを心が制御することができるようになります。

では、数分の瞑想をしてみましょう。ゆったりと、真っ直ぐに、安定した場所に座ります。兵士のように身体を硬く直立する必要はありません。ただ、前後左右に傾かないようにします。眼を閉じて、自分に言います: 「私は幸せで、悩みがなくなりますように」。瞑想を始めるというのに、これは奇妙に、利己的さえ聞こえるかも知れませんが、これにはもっともな理由があるのです。まず第一に、もしも自分の幸せを望むことが出来ないならば、その人は他人の幸せを心から望むことはできません。なかには、私達は幸福になる資格があるのだと、常に思い出す必要がある人々もいます --- 私達は全員がその資格があります。しかし、そう思うことができないなら、私達自身を罰する方法を常に探し続けて、そしてまた最後には、他人をずるく、厚かましく罰することになるでしょう。

第二に、何が本当の幸せで、そしてそれが何処にあるかをよく考察するのは重要なことです。ちょっと考えただけでも、それは過去にも未来にもないことが分かるでしょう。過去はもう去ったことですし、あなたの幸せの記憶もあてになりません。未来は白紙で不確かです。ですから、幸せを本当に見つけることができるのは現在なのです。けれども、そうだとしても、どこを探すべきかを知るべきです。もし、幸せの基礎を変化するもの --- 見るもの、音、感覚一般、人や外のもの---に築こうとするならば、過去に繰り返し崩れた崖の上に家を立てるように絶望に陥いるでしょう。ですから、本当の幸せは内面に探されるべきなのです。瞑想は、ですから宝探しに似ています: 心の中の揺るがない、変わらない価値あるものを探すのです。それは死さえも手出しができないようなものです。

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