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最終更新時間: 2015-06-29 12:47

長老偈第995偈 (Sāriputtattheragāthā) 注釈書

[長老偈][サーリプッタ尊者][注釈書]

長老偈第995偈(Sāriputtattheragāthā)注釈

日本語訳

「師が法を教示されていることに関して、彼は十分な条件を具足する」と比丘達における法話によって起った「調御の導き」を示しつつ「他の者に」と偈を口にされました。ここにaññassa(「他の者に」)とは、自分の甥に長爪の行者に関して言われたこと(です)。実に、彼に師が感覚への執着の経を教示されている時、この大長老が修道を証得して、声聞波羅蜜の智慧の頂上に到達されました。"Sotamodhesimatthiko"とは、師を扇ぎつつ立って望んでいて聴こうと欲しつつ耳を傾けた(ことです)。 Taṃ me amoghaṃ savanan (「それは私に空虚ではない傾聴でした)とは、それがかくの如く教えを聴くことが自分にとって空虚ではなく、無駄ではなく、第一弟子によって得られるべき成就の助けでした(ということです)。それ故に「解脱」などと言われたのです。

パーリ語

‘‘Yaṃārabbha satthā dhammaṃ deseti, so eva upanissayasampanno’’ti bhikkhūsu kathāya samuṭṭhitāya‘‘nayidameta’’nti dassento‘‘aññassā’’ti gāthamāha. Tattha aññassāti attano bhāgineyyaṃ dīghanakhaparibbājakaṃ sandhāyāha. Tassa hi satthārā vedanāpariggahasutte (ma. ni. 2.205-206) desiyamāne ayaṃ mahāthero bhāvanāmagge adhigantvā sāvakapāramīñāṇassa matthakaṃ patto. Sotamodhesimatthikoti satthāraṃ bījayamānoṭhito atthiko hutvā sussūsanto sotaṃ odahiṃ. Taṃme amoghaṃ savananti taṃ tathā sutaṃ savanaṃ mayhaṃ amoghaṃ avañjhaṃ ahosi, aggasāvakena pattabbaṃ sampattīnaṃ avassayo ahosi. Tenāha‘‘vimuttomhī’’tiādi.

‘‘Yaṃārabbha satthā dhammaṃ deseti, so eva upanissayasampanno’’ti bhikkhūsu kathāya samuṭṭhitāya‘‘nayidameta’’nti dassento‘‘aññassā’’ti gāthamāha
yaṃ:(nt. sing. of ya), adv. which; whatever thing. adv. because of.→
ārabbha: ind. beginning with; referring to; about.→「〜に関して」
satthā:satthar 「師」(nom.)→「師が」
dhammaṃ:dhamma「法」(acc.)→「法を」
deseti: dis + e points out; preaches; expounds.→「示す・教示する」
so:(nom. sin. of ta), m. he.→
eva: ind.(emphatic particle), only.→
upanissayasampanno:upanissaya 「近依・親依(基盤・支え・十分な条件)」+ sampanna 「具足する」→
bhikkhūsu:bhikkhu「比丘」(pl. loc.)→
kathāya:kathā「説・話」→
samuṭṭhitāya:samuṭṭhita「等起する・生起する」→
nayidameta’’nti:nayi (neti「導く」のaor.?「導いた」)+ dameta’’nti →(よく分りません)
dassento:dasseti「示す・見せる」(ppr.)→「示しつつ・見せつつ」
aññassā’’ti:aññassā’’ti →
gāthamāha:gāthaṃ「偈」(f. acc.)+ āha 「言った」→

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ダンマパダ第183-185偈 註釈 (3/3)

[ダンマパダ][注釈書]

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183,184,185偈註釈:パーリ語(2)

Tattha sabbapāpassāti sabbassa akusalakammassa. Upasampadāti abhinikkhamanato paṭṭhāya yāva arahattamaggā kusalassa uppādanañceva uppāditassa ca bhāvanā. Sacittapariyodapananti pañcahi nīvaraṇehi attano cittassa vodāpanaṃ. Etaṃ buddhāna sāsananti sabbabuddhānaṃ ayamanusiṭṭhi.

Tattha sabbapāpassāti sabbassa akusalakammassa
tattha: adv. there; in that place.→「ここに」
sabbapāpassāti:「sabbapāpassāとは」
sabbassa: sabba 「全て」(sg. dat.)→「全て(の)」
akusalakammassa:akusala 「不善」+ kamma 「行為(sg. dat.)→「不善行為を」

ここにsabbapāpassāとは、全ての不善行為を(という意味です)。

Upasampadāti abhinikkhamanato paṭṭhāya yāva arahattamaggā kusalassa uppādanañceva uppāditassa ca bhāvanā
upasampadāti:「upasampadāとは」
abhinikkhamanato:abhinikkhamana「出家」(sg. abl)→「出家から」
paṭṭhāya: ind. beginning with; henceforth; from the timeof.→「〜から・して以来」
yāva:「〜まで・〜の限り・〜の間は」
arahattamaggā:arahattamagga 「阿羅漢道」(pl. nom.)→
uppādanañceva:uppādanaṃ「なすこと」+ ca 「また」+ eva 「こそ」(?)→
uppāditassa:uppādita(uppādeti「なす」の pp)(gen., dat.)→「なした・つくった」
bhāvanā:bhāvanā「修行」(f. pl. nom.)→

Upasampadāとは、出家した限りは阿羅漢道は、善をなすこととなした(?)修行(という意味です)。

Sacittapariyodapananti pañcahi nīvaraṇehi attano cittassa vodāpanaṃ

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ダンマパダ第183-185偈 註釈 (2/3)

[ダンマパダ][注釈書]

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183,184,185偈註釈

4.Ānandattherapañhavatthu

Ānandattherapañhavatthu
ānandattherapañhavatthu:ānanda 「アーナンダ(尊者)」+ (t)thera 「長老」+pañha 「質問」+vatthu 「事」→

アーナンダ長老の質問の事

Sabbapāpassa akaraṇanti imaṃ dhammadesanaṃ satthā jetavane viharanto ānandattherassa pañhaṃārabbha kathesi.

Sabbapāpassa akaraṇanti imaṃ dhammadesanaṃ satthā jetavane viharanto ānandattherassa pañhaṃārabbha kathesi
sabbapāpassa:sabba 「一切の・全て(の)」+ pāpa 「悪」(dat.) →「一切の悪を」
akaraṇanti:a+ karaṇaṃ「しないこと」+ ti →「しないこと、とは」
imaṃ:imaṃ「これ」(acc.)→「この(〜に)」
dhammadesanaṃ:dhamma 「法」+ desana 「教示」(acc.)→「説法を」
satthā:satthar 「師」(nom.)→「師が」
jetavane:jetavana 「ジェータ林」(loc.)→「ジェータ林において」
viharanto:viharati 「住む」(ppr. nom.)→「お住みになっている時に」
ānandattherassa:ānanda+(t)thera 「長老」(gen.)→「アーナンダ長老の」
pañhaṃ:pañha 「質問」(acc.)→「質問に」
ārabbha: ind. beginning with; referring to; about.→「関して」
kathesi: aor. of katheti said; spoke; related.→「言われた」

「一切の悪を行わないこと」というのは、この説法を、師がジェータ林にお住まいの時に、アーナンダ長老のご質問に関してなさいました。

Thero kira divāṭṭhāne nisinno cintesi –‘‘satthārā sattannaṃ buddhānaṃ mātāpitaroāyuparicchedo bodhi sāvakasannipāto aggasāvakasannipāto aggasāvakaupaṭṭhākoti idaṃ sabbaṃ kathitaṃ, uposatho pana akathito, kiṃ nu kho tesampi ayameva uposatho, añño’’ti? So satthāraṃ upasaṅkamitvā tamatthaṃ pucchi. Yasmā pana tesaṃ buddhānaṃ kālabhedova ahosi, na kathābhedo. Vipassī sammāsambuddho hi sattame sattame saṃvacchare uposathaṃ akāsi. Ekadivasaṃ dinnovādoyeva hissa sattannaṃ saṃvaccharānaṃ alaṃ hoti. Sikhī ceva vessabhū ca chaṭṭhe chaṭṭhe saṃvacchare uposathaṃ kariṃsu, kakusandho koṇāgamano ca saṃvacchare saṃvacchare. Kassapadasabalo chaṭṭhe chaṭṭhe māse uposathaṃ akāsi. Ekadivasaṃ dinnovādo eva hissa channaṃ māsānaṃ alaṃ ahosi. Tasmā satthā tesaṃ imaṃ kālabhedaṃārocetvā‘‘ovādagāthā pana nesaṃ imāyevā’’ti vatvā sabbesaṃ ekameva uposathaṃāvi karonto imā gāthā abhāsi –

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ダンマパダ第183-185偈 註釈 (1/3)

[ダンマパダ][注釈書]

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183,184,185偈註釈

日本語訳

Ānandattherapañhavatthu

アーナンダ長老の質問の事

「一切の悪を行わないこと」というのは、この説法を、師がジェータ林にお住まいの時に、アーナンダ長老のご質問に関してなさいました。

長老は、伝え聞くところでは、日中に座って(こう)お考えになりました–「師によって、7人のブッダ達の母・父が、(それらの)寿命の長さが、(それらの)菩提樹が、(それらの)弟子達が、(それらの)第一の弟子達が、(それらの)第一の援助者達が、これらすべてが説かれています。布薩は、しかし説かれていません。,何が、実に、かのブッダ達とこの布薩の違いでしょうか」と。長老は、師に近付いて、その疑問をお尋ねになりました。

それらのブッダ達には時期の違いはありましたが、しかし、説かれた事の違いはありませんでした。ヴィッパシー正自覚者は、実に七年目毎に布薩をなさいました。一日の説法が実に、七年に十分でした。スィッキー(・ブッダ)もヴェッサブー(・ブッダ)もまた、六年毎に布薩をされ、カクサンド(・ブッダ)、コーナガマナ(・ブッダ)もまた一年毎に(布薩をなさいました)。カッサパ十力(仏)は、六ヶ月毎に布薩をなさいました。一日になさった説法は実に六ヶ月に十分でした。それ故に、師はそれらブッダ達のこの時期の違いを話され、「教示の偈は、しかし、それら(過去のブッダ達)のこれです」と言われ、明瞭に全てが同じ(内容の)布薩であるとしつつ、これらの偈を語られました。

183
Sabbapāpassa akaraṇaṃ,(一切の悪をしないこと、)
kusalassa upasampadā;(善に到達すること、)
Sacittapariyodapanaṃ,(己の心を清めること、)
etaṃ buddhāna sāsanaṃ.(これが諸仏の教え。)

184
Khantī paramaṃ tapo titikkhā,(忍耐・堪忍は最上の修行、)
Nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā;(涅槃は最高のもの、と諸仏は説き給う。)
Na hi pabbajito parūpaghātī,(他を害する者は出家にあらず、)
Na samaṇo hoti paraṃ viheṭhayanto.(他を困らせる者は沙門にあらず。)

185
Anūpavādo anūpaghāto,(非難しないこと、害さないこと)
Pātimokkhe ca saṃvaro;(戒において、また(自分を)守ること)
Mattaññutā ca bhattasmiṃ,(食べることおいて、また適量を知ること)
Pantañca sayanāsanaṃ;(独り、また臥座すること)
Adhicitte ca āyogo,((増上)心において、また努めること)
Etaṃ buddhāna sāsanaṃ.(これが諸仏の教え。)

ここにsabbapāpassāとは、全ての不善行為を(という意味です)。 Upasampadāとは、出家した限りは阿羅漢道は、善をなすこととなした(?)修行(という意味です)。 sacittapariyodapanaṃとは、五蓋から自己の心を清らかにすることです。 Etaṃ buddhāna sāsananとは、全てのブッダ達のこの教え(という意味です)。

khantī(忍耐)とは、このtitikkhā(堪える)と称するkhantīが、この教えにおいて最高、最上の修行である(という意味です)。 Nibbānaṃ paramaṃ vadanti buddhā(涅槃は最高のものである、と諸仏は説きたもう)とは、ブッダも、独覚も、随覚も、これら三つのブッダ達が最上であると説かれた(という意味です)。 Na hi pabbajito とは、手などによって他を殺している時、傷つけている時、他を害している者は、実に、出家ではない(という意味です)。 na samaṇoとは、言われた方法で、他を困らせしめる者はまた沙門ではない(という意味です)。

anūpavādoとは、非難しないことと、また非難せしめないこと(という意味です)。 anūpaghātoとは、害さないことと、また害させしめないこと(という意味です)。 pātimokkheとは、最勝の戒において(という意味です)。 saṃvaroとは、覆うこと(という意味です)。 mattaññutāとは、mattaññuの状態が分量を知ること(という意味です)。 pantaṃとは遠離した(という意味です)。 adhicitteとは、八等至を察量する増上心において(という意味です)。āyogoとは努力すること(です)。 etaṃ(これが)とは、全てのブッダ(達)の教えである(という意味です)。ここに、anūpavāda(「非難しないこと」)によって言葉の戒が説かれ、 anūpaghāta(「害さないこと」)によって身体の戒が、pātimokkhe ca saṃvaro(「戒律において、また(自分を)守ること」)と戒が説かれ、 anūpaghāta(「害さないこと」)によって身体の戒が、pātimokkhe ca saṃvaro(「戒律において、また(自分を)守ること」)と、これによって戒律を護ること(戒律儀)も、また根を護ること(根律儀)をも、mattaññutā(「適量を知ること」)によって、生活を完全に清浄にすること(「活命清浄」)も、また生活必需品の適量をわきまえること(「資具依止」)をも、pantasenāsana (「独り臥座すること」)によって適切な住まいが、adhicitta(増上心)によって八つの定が(説かれています)。このように、この偈によって三学こそもまた説かれています、と。

説法の終りに、多くが預流果などを得ました、と。

アーナンダ長老の質問の事・第四。

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[ダンマパダ][注釈書]

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266-267偈註釈

日本語訳

Natena bhikkhu so hotī(「だからといって彼は比丘ではない」)とは、この説法を師がジェータ林にお住みになっている時に、あるバラモン人に関してお話されました。

彼は聞くところによると他の宗義において出家して托鉢に行っている時に考えました:–「沙門ゴータマは、自分の弟子達を托鉢の行為でもって『比丘達』と呼んでいます、私のことをもまた、『比丘』と呼ぶのが適当でしょう」と。彼は師に近付いて「友よ、ゴータマよ、私もまた托鉢で生きています、私のことをもまた『比丘』と呼んで下さい」と言いました。時に、それに(対して)師は「私は、バラモン人よ少量を托鉢することで比丘と言いません。実に、正しくない教えを受けている時比丘ではありません。しかし、全ての行為において分別して歩む者は、彼は比丘と呼ばれます」と説いて、次の偈を語られました–

「それ故にその人が比丘(bhikkhu)ではない
他から托鉢(bhikkhate)するということだけでは。
正しくない教えを受けて、
彼が比丘である、ということはない、そのことだけで。」

「この世の、利益をも、悪をも
離れて清らかな行いを実践する者
見分けて、世界を歩む、
彼は実に「比丘と」言われる」と。

そこに yāvatāとは他から托鉢することだけでもって,少量を托鉢することでもって実に比丘ではない、ということです。Vissaṃとは、正しくない教え、生肉の臭いがする、または、身体の儀式などの教えを受け実践することが実に比丘ではない、ということです。Yodhāとは、この世で、教えにおいて利益をも、悪をもの両方から道梵行によって離れて、排除して梵行を実践する者、ということです。 Saṅkhāyāとは智慧によってということです。 Lokeとは、蘊などの世界を「これらは内蘊である、これらは外(蘊?)である」と、このように全ての真理をも知って歩む、彼は智慧によって煩悩を破ったことによって「比丘」と言われる、という意味です。

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サンユッタ・ニカーヤ 47-19 註釈 (5/5)

[サンユッタ・ニカーヤ][注釈書]

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第四段落

Khantiyāti adhivāsanakhantiyā.Avihiṃsāyāti sapubbabhāgāya karuṇāya.Mettacittatāyāti sapubbabhāgāya mettāya.Anudayatāyāti anuvaḍḍhiyā, sapubbabhāgāya muditāyāti attho.Paraṃ rakkhanto attānaṃ rakkhatīti ettha yo bhikkhu rattiṭṭhānadivāṭṭhānaṃ gato tīsu brahmavihāresu tikacatukkajjhānāni nibbattetvā jhānaṃ pādakaṃ katvā saṅkhāre sammasanto vipassanaṃ vaḍḍhetvā arahattaṃ pāpuṇāti.Ayaṃ paraṃ rakkhanto attānaṃ rakkhati nāmāti veditabbo.

Khantiyāti adhivāsanakhantiyā.
adhivāsanakhantiyā:adhivāsana 「忍、忍受」+ khantī(inst.)「忍耐」→「忍住・忍耐によって」

khantiyāとは、「忍住・忍耐によって」です。

Avihiṃsāyāti sapubbabhāgāya karuṇāya.
sapubbabhāgāya:sa「自分の」+ pubba「前の・昔の」+bhāga 「時分」(dat.)→「自らの昔の時分の」
karuṇāya:karuṇā「悲」(inst.)→「悲の心によって」

avihiṃsāyā「害さないことによって」とは「自分の前の悲の心によって」ということです。

Mettacittatāyāti sapubbabhāgāya mettāya.
mettāya:mettāya →

Mettacittatāyā(「慈しみの心によって」)とは、「自分の前の慈しみによって」ということです。

Anudayatāyāti anuvaḍḍhiyā, sapubbabhāgāya muditāyāti attho.

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サンユッタ・ニカーヤ 47-19 註釈 (4/5)

[サンユッタ・ニカーヤ][注釈書]

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第三段落

So tattha ñāyoti yaṃ medakathālikāāha. So tattha ñāyo, so upāyo, taṃ kāraṇanti attho.Satipaṭṭhānaṃsevitabbanti catubbidhaṃ satipaṭṭhānaṃ sevitabbaṃ.Āsevanāyāti kammaṭṭhānāsevanāya.Evaṃ kho, bhikkhave, attānaṃ rakkhanto paraṃ rakkhatīti yo bhikkhu kammārāmatādīni pahāya rattiṭṭhānadivāṭṭhānesu mūlakammaṭṭhānaṃāsevanto bhāvento arahattaṃ pāpuṇāti, atha naṃ paro disvā–‘‘bhaddako vatāyaṃ, bhikkhu, sammāpaṭipanno’’ti tasmiṃ cittaṃ pasādetvā saggaparāyaṇo hoti. Ayaṃ attānaṃ rakkhanto paraṃ rakkhati nāma.

So tattha ñāyoti yaṃ medakathālikāāha.
yaṃ:yaṃ(nom.)→「〜のところのもの」
medakathālikā:medakathālikā→
āha:āha →「言った」

So tattha ñāyo(彼が、その時、正しいのです)とは、メーダカターリカーが言ったことです。

So tattha ñāyo, so upāyo, taṃ kāraṇanti attho.
ñāyo:ñāya 「「真理・正しいありさま」」→
so:so →
upāyo:upāya 「手段・方法」(nom.)→
kāraṇanti:kāraṇaṃ「原因・根拠」+ ti (ṃ+ti → nti)→
attho:attha 「意味」(nom.)→

彼はその時正しく、彼のやり方が、その根拠である、という意味です。

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サンユッタ・ニカーヤ 47-19 註釈 (3/5)

[サンユッタ・ニカーヤ][注釈書]

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第二段落

Tvaṃācariya attānaṃ rakkha, ahaṃ attānaṃ rakkhissāmīti ettha ayamadhippāyo –ācariyo vaṃsaṃ suggahitaṃ gaṇhanto, antevāsikena pakkhantapakkhantadisaṃgacchanto , sabbakālañca vaṃsaggaṃ ullokento, attānameva rakkhati, na antevāsikaṃ. Antevāsikopi kāyampi ekatobhāgiyaṃ katvā vātūpathambhaṃ gāhāpetvā satiṃ sūpaṭṭhitaṃ katvā niccalova nisīdamāno attānaṃyeva rakkhati nāma, naācariyaṃ.

ayamadhippāyo:ayaṃ「この」(nom.?)+adhippāya 「意味」→「この意味は」
vaṃsaṃ:vaṃso (acc.)→「竹竿を」
pakkhantapakkhantadisaṃgacchanto:pakkhanta (pp. of pakkhandati:跳び移った)+ pakkhanta + disaṃ「四方に」+gacchanta 「行きつつ」(nom.)→「跳び移られた四方に行きつつ」
ullokento: ullokento →「見上げつつ」
attānameva:attānaṃ(attan: acc.)「自分を」+ eva 「こそ」→
rakkhati:「守る」(sg.3rd)
antevāsikaṃ:antevāsikaṃ→「弟子もまた」
kāyampi:kāyaṃ(kāya 「身体」acc.)+ pi →「身体をもまた」
nisīdamāno:nisīdatiのppr.(nisīda + māna)→「座りつつ」
attānaṃyeva:attānaṃ(attan: acc.)「自分を」+ yeva (= eva)「こそ」→
ācariyaṃ:ācariya (acc)→「師匠を」

Tvaṃācariya attānaṃ rakkha, ahaṃ attānaṃ rakkhissāmī(『先生、あなたは御自分を守って下さい、私は私を守ります。』)とある、ここにこの意味は、–師匠はしっかり掴んだ竹竿を捕まえていつつ、弟子によって跳び移られた四方に行きつつ、いつでも竹竿の行く先を見上げつつ、自分こそを守ります、弟子をではありません。弟子もまた、身体をもまた一緒につながっているようにして、またしかし柱の近くを掴ませて、気づきをよく供えられたようにして、不動であるかのように座りつつ、自分こそを守ります、実に、師匠をではありません

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サンユッタ・ニカーヤ 47-19 註釈 (2/5)

[サンユッタ・ニカーヤ][注釈書]

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9. Sedakasuttavaṇṇanā

9. Sedakasuttavaṇṇanā

sedakasuttavaṇṇanā:sedakasutta + vaṇṇanā(f)「註釈」→「セーダカ経註釈」

第一段落

385. Navame sumbhesūti evaṃnāmake janapade.Medakathālikāti evaṃ itthiliṅgavasena laddhanāmaṃ.Mamaṃ rakkha, ahaṃ taṃ rakkhissāmīti ettha ayaṃ tassa laddhi –ācariyo ukkhittavaṃsaṃ suggahitaṃ agaṇhanto, antevāsikena pakkhantapakkhantadisaṃ agacchanto, sabbakālañca vaṃsaggaṃ anullokento antevāsikaṃ na rakkhati nāma, evaṃ arakkhito antevāsiko patitvā cuṇṇavicuṇṇaṃ hoti. Vaṃsaṃ pana suggahitaṃ gaṇhanto, tena pakkhantapakkhantadisaṃ gacchanto, sabbakālañca vaṃsaggaṃ ullokento taṃ rakkhati nāma. Antevāsikopi ito cito ca pakkhanditvā migo viya kīḷanto ācariyaṃ na rakkhati nāma. Evañhi sati tikhiṇavaṃsakoṭi ācariyassa galavāṭake vā nalāṭe vāṭhapitāṭhitaṭṭhānaṃ bhinditvā gaccheyya.Ācārasampannatāya pana yato vaṃso namati, tato anāmento taṃākaḍḍhento viya ekatobhāgiyaṃ katvā vātūpathambhaṃ gāhāpetvā satiṃ sūpaṭṭhitaṃ katvā niccalova nisīdanto ācariyaṃ rakkhati nāmāti.

Navame sumbhesūti evaṃnāmake janapade.
navame:navama「第九の」(loc.)→「第九における」
sumbhesūti:「sumbhesūとは」
evaṃnāmake:evaṃ「このような」+ nāmaka 「名の」(loc.)→「このような名である(loc.)」
janapade:janapada 「地方」(loc.)→「地方における」

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サンユッタ・ニカーヤ 47-19 註釈 (1/5)

[サンユッタ・ニカーヤ][注釈書]

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9 セーダカ経註釈

第九におけるsumbhesūとは、このような名である地方におけるということです。 medakathālikā(メーダカターリカー)とはこのように女相の影響によって得た名前です。 Mamaṃ rakkha, ahaṃ taṃ rakkhissāmī(『私を守りなさい、私は君を守ります。』)とは、(ここに、)これが彼の主張です。師匠が、持ち上げた竹竿を、しっかり掴んでいるものを、捕まえてなく、弟子によって跳びて移られた方向に行っていない、いつでも竹竿の行くところを見上げていない時、弟子を守りません、実に、守られていない弟子は落ちて粉々に打ち砕かれてしまうのである(と)。しかし、竹竿をしっかり掴み捕まえていつつ、それゆえに、跳ねて飛び移られた方向に行きつつ、いつでも竹の行くところを見上げていつつある時、実に彼を守ります。これより、乗せられた者の弟子もまた、飛び跳ねて鹿のように遊んでいる時、師匠を守りません。実に、このようにあるときは、鋭い竹竿の先は師匠の喉輪に、または、額に、置かれて立ててある処を破っていくことでしょう。行いを具えた者の竹竿は曲がり、しかし、そこから曲げないようにしつつ、彼を引かしめつつあるように、一緒につながっているようにして、またしかし柱の近くを掴ませて、念をよく供えて、不動のように座つつある時、師匠を守ります。Tvaṃācariya attānaṃ rakkha, ahaṃ attānaṃ rakkhissāmī(『先生、あなたは御自分を守って下さい、私は私を守ります。』)とある、ここにこの意味は、–師匠はしっかり掴んだ竹竿を捕まえていつつ、弟子によって跳び移られた四方に行きつつ、いつでも竹竿の行く先を見上げつつ、自分こそを守ります、弟子をではありません。弟子もまた、身体をもまた一緒につながっているようにして、またしかし柱の近くを掴ませて、気づきをよく供えられたようにして、不動であるかのように座りつつ、自分こそを守ります、実に、師匠をではありません

So tattha ñāyo(彼が、その時、正しいのです)とは、メーダカターリカーが言ったことです。彼はその時正しく、彼のやり方が、その根拠である、という意味です。 Satipaṭṭhānaṃsevitabbaṃ(気づきを実践するべきです)とは、四つの念住を実践するべきであるということです。Āsevanāyā(実践によって)とは、瞑想(の主体)を実践することで、ということです。Evaṃ kho, bhikkhave, attānaṃ rakkhanto paraṃ rakkhatī(このように、比丘達よ、自分を守る者が他を守るのです)とは、比丘が世俗の喜びに耽ることを捨てて夜も昼も根本の瞑想(の主体)を実践し修習して阿羅漢果を得ること、またそれを他の者が見て「賢者である比丘はそのように正行者であるのだ」と心を清らかにして天界に至るということです。これが、自分を守っている者が他を守るということです。

khantiyāとは、「忍住・忍耐によって」です。avihiṃsāyā「害さないことによって」とは「自分の前の悲の心によって」ということです。Mettacittatāyā(「慈しみの心によって」)とは、「自分の前の慈しみによって」ということです。Anudayatāyā(憐れみの心でいることによって)とは、随いて増大した自分の前の喜(の心)によってという意味です。 Paraṃ rakkhanto attānaṃ rakkhatī(他を守っている者は自分を守ります)と、ここに夜に昼に行なった比丘が三つの梵住において三つの四禅定をつくり、禅定の基礎(第一?)をつくって行を思惟しつつヴィパッサナーの智慧を成長させて阿羅漢果を得るのです。これが、実に、他を守っている者が自分を守ることであると、理解されるべきです。

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