最新 hohiのPali語学習・作業記録

最終更新時間: 2015-06-29 12:47

Courageous Faith — 勇気としての信(仰)

[ニャーナポーニカ長老][Access To Insight]

( Access to Insight Library にあるNyāṇaponika Thera による"Courageous Faith"を訳してみたものです。)

Courageous Faith —勇気としての信(仰)

信仰は、単に物事の存在や信条教義の正しさを信じることだけではなく、その対象の力を確信することをも意味します。宗教的な信仰とは、この上なくありがたいものの力を信じ確信することであり、特に仏教徒の信仰の場合は、八正道の比類無き力を信じ、その浄化と解脱に効果があることを確信することです。

自分のことを「信者」あるいは「信仰のある者」、—私達の場合は「仏教徒」—と称する人の中でも、善の実際の力に対する本当の信仰を持って、個人と社会の生き方を変えてゆき、高めるような人はさらに稀です。善の力強い流れに自らを敢えて任せる人はずっと少なく、多くは、曖昧な「信仰」の類いではあるけれども、自身の中の悪の力と、世界が強いことを密かに信じています—抗うには強すぎるのだ、と。この世の多くの政治家は同じように信じているように思われます。特に自分のことを「現実主義者」と称する時、悪だけが「現実」である、と明らかにほのめかしているのです。その偉大な力に服従するのが必要なのだと考えているのです。そういうことの是非を吟味しようとしないのであれば、彼らが大したことを達成できなくても不思議ではありません。

確かに、悪と愚かさの偉大なる力を目の当たりにする時、この種の善に対する信仰にはある勇気が必要です。けれども、勇気なしではいかなる進歩も不可能です。進歩とは、満足のいかない個人と社会の現状が生来持っている惰性を克服することなのです。物事と心が持つ生来の惰性と今のままでいたいという抵抗を打破するには疑いなく勇気が要ります。しかし、まさに、この勇気が成功への前提条件なのです。

昔の仏教教理の師達は、勇気が本当の信仰の本質であることを良く理解していました。彼らは、それゆえ、信仰を強く勇気のある英雄に喩えました:荒れ狂う水の流れに飛び込み、岸でおどおどして立ち止まっている人、興奮している人、土手を無駄に行ったり来たりしている人、渡る良い場所について役に立たない議論をしている人々—このような弱い人々を安全に渡らせる英雄です。この喩えは、社会にも個人の内面にも当てはめることができます。社会生活の場合の「弱い人々」とは、指導者に従い支えることを進んで行う人々ですが、けれども自分達では始めることが出来ない人々のことです。個人の内面では、「弱い人々」は精神的な成長に必要な素養が未熟、あるいはそれを補う徳目が伴わない人々のことです。

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Protection Through Satipaṭṭhāna (by Nyāṇaponika Thera) 〜

[ニャーナポーニカ長老][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyāṇaponika Thera による"Protection Through Satipatthana"を訳してみたものです。

Nyāṇaponika Thera(ニャーナポーニカ長老)について

Nyāṇaponika Theraについては Access to Insightにある紹介文に次のようにあります:。

ニャーナポーニカ長老(ジークムント・フェニガー)は1936年に生まれたドイツからスリランカに移り、ニャンナティローカ長老(1878-1957)の元で比丘として出家されました。1958年にはBuddhist Publication Societyの設立に尽力され、1984年まで編集長を、また1988年に引退されるまで会長を努められました。長老は57回目の雨安居の最後の日に、キャンディ郊外ウダワッタキャレー保安林(the Udawattakele Reserve)内のフォレスト・エルミタージュ(the Forest Hermitage)で穏やかに息を引きとられました。人々に賞賛されている長老の著作としては"The Heart of Buddhist Meditation"、"The Vision of Dhamma"、"Abhidhamma Studies"、(Bhikkhu Bodhiと共著で)"Numerical Discourses of the Buddha"があります[出典: Introduction to "The Vision of the Dhamma"(Kandy: Buddhist Publication Society, 1992)、"For the Welfare of Many" by Bhikkhu Bodhi.]。


ある時、ブッダは比丘達に次の物語をお話されました(Satipaṭṭhānasaṃyutta, 19):

昔、高い竹竿の上で曲芸をする二人の曲芸師がいました。ある日、師匠の方が弟子にこう言いました:『さあ、私の肩に乗り、竹竿を登りなさい』。弟子が言われた通りにすると、師匠は言いました:『では、お前は私をよく守りなさい!そして私はお前を守ります!こうやってお互いを守ることで、我々の技を見せることができて、そして稼ぎを得ることができて、竹竿から安全に降りることができるのす』。しかし弟子は言いました:『師匠、それは違いますよ!師匠は御自分をお守り下さい。そして私は自分を守ります。こうして自分を守り、自分を保護することで私達は安全に曲芸を出来るでしょう』と。

「これが正しい方法です」と世尊は仰い、次のように続けられました:

「その弟子が言った通り:『私は私を守ります』—このように気づきを保ち続けること(satipaṭṭāna)を実践するべきです。『私は他者を守ります』—このように気づきを保ち続けることを実践するべきです。自分を守ることで、他者を守ります;他者を守ることで、自分を守ります。

それでは、どのようにして、自分を守り、他者を守るのでしょうか。繰り返し、多く瞑想を実践することによってです(āsevanāya, bhāvanāya, bahulīkammena).

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Seeing Things as They Are (by Nyāṇaponika Thera) 〜ありのままに見ること

[ニャーナポーニカ長老][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyāṇaponika Thera による"Seeing Things as They Are"を訳してみたものです。

Nyāṇaponika Thera(ニャーナポーニカ長老)について

Nyāṇaponika Theraについては Access to Insightにある紹介文に次のようにあります:。

ニャーナポーニカ長老(ジークムント・フェニガー)は1936年に生まれたドイツからスリランカに移り、ニャーナティローカ長老(1878-1957)の元で比丘として出家されました。1958年にはBuddhist Publication Societyの設立に尽力され、1984年まで編集長を、また1988年に引退されるまで会長を努められました。長老は57回目の雨安居の最後の日に、キャンディ郊外ウダワッタキャレー保安林(the Udawattakele Reserve)内のフォレスト・エルミタージュ(the Forest Hermitage)で穏やかに息を引きとられました。人々に賞賛されている長老の著作としては"The Heart of Buddhist Meditation"、"The Vision of Dhamma"、"Abhidhamma Studies"、(Bhikkhu Bodhiと共著で)"Numerical Discourses of the Buddha"があります[出典: Introduction to "The Vision of the Dhamma"(Kandy: Buddhist Publication Society, 1992)、"For the Welfare of Many" by Bhikkhu Bodhi.]。


Seeing Things as They Are

長い人生の間のほんの一分だけを観察したとしても、生きていることの形の変化はすさまじくて、その描写は出来ないでしょう。それでも、生命としての存在の全てに共通な三つの基本的な特徴に気付くことが出来ます。それは微生物から人間まで、最も単純な感覚から創造的な天才の思考にまでも当てはまります:

無常あるいは変化(anicca);

苦または、満足する(できる)ことがないこと(dukkha);

無我または実体がないこと(anatta).

この三つの本質的な事実は、正しくも世間解(loka-vidū)と呼ばれるブッダによって、2500年以上も前に述べられました。これは、仏教的な言い方では三相(ti-lakkhaṇa)と呼ばれています—生じるもの全てにある不変のしるし、まさに生命そのものの表面に刻まれている"signata"(訳注:模様—ラテン語で斑紋)です。

この三つのうち、一番目と三番目は生命にも生命でないものにも直接当てはまります—すべての形ある存在は、まさに変化を経験し、そして実体を持たないのです。二番目の性質、苦は、もちろん生命だけが経験します。けれども、ブッダは苦の性質を全ての生じる現象に対してあてはめました。それは、生き物にとって、全ての現象は苦を経験する潜在的な原因となり、いずれにしても永続する満足を与えることは不可能である、という意味においてです。このように、この三つは、私達の通常の認識範囲のなかのものも、あるいはそれを超えるものにも等しくついている、真に普遍的な印なのです。

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