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最終更新時間: 2015-06-29 12:47

慈悲(Metta)の実践

[Access To Insight]

Access to Insight Library にある Ñanamoli Thera によ る"The Practice of Loving-Kindness (Metta): As Taught by the Buddha in the Pali Canon", compiled and translated by Ñanamoli Thera. Access to Insight (Legacy Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/nanamoli/wheel007.html を訳してみたものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


目次

はじめに   

love「愛」という語 — 英語の中で最も引き込まれる語の一つ—は通常とても広く、大まかで、深遠な意味で使われているため、時にほとんど無意味になっています。 それでも、正しく理解されるならば、愛は平和で進歩的で健康な社会の構築だけでなく、個人の成長と清浄のために不可欠で大事な基礎です。

さて、愛というものは主要な二つの気持ちを考えることができます: 恋人が互いに抱くもの、そして、母親が子に抱くものです。 精神論的な流儀では、愛は一方あるいは他方から刺激を引き出すことができるものです。 恋人達の互いへの愛を理想とするような愛は、しばしば激しい激情と見なされ、時に苦痛や受難などを通じた純粋さを要求します。 しかし、子への母親の愛を指標とする愛は、全ての安全、幸福、精神的な健康(自分の健康を守るように母親は子に最善を尽くします)の純粋な理想的な源泉までに、それ自身を高めることができます。 ブッダが普遍的な愛(訳注:慈悲)の教えの基礎としているのは、この後者の種類の類です。

ギリシャ語では感覚的(訳注: 性的)なエロスと精神的な愛(訳注: 神の愛)の二つを区別しているのに対して、英語は"love"「愛」の一つの語だけを用います。 パーリ語では、サンスクリット語のように、多くのニュアンスの意味を包含する単語が沢山あります。 この教えに対してブッダがお選びになった言葉は、mitta 友(より正確には「真の友」)という語から、mettaです。

ブッダの教えのmettaは、他の生命との健全・平和な関係を育てるための四つの瞑想の最初に挙げられています。 その四つとは、metta(訳注: 慈)今後は「慈しみ」と解します、karuṇā(訳注: 悲) これは「憐れみ」「同情」、muditā (訳注: 喜)これは「他者の成就を喜ぶこと」、そしてupekkhā (訳注: 捨) これは「落ち着いて観ること」です。 この四つは神の境地に留まること(brahmavihāra 訳注: 梵住)と呼ばれます。多分、これらの一つでも瞬間に維持できるのであれば誰でも、その時は最高の神(brahmā 梵天)が留まっているような状態にいるからでしょう。

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Satipaṭṭhāna Vipassanā

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw によ る"Satipatthana Vipassana"を訳してみたものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


目次

翻訳者のまえがき

ウ・ヌ首相とBuddha Sasananuggaha Association会長 Thado Thiri Thudhamma ウ・テュウィン卿らのじきじきの要請で、マハーシ・セヤドー— 尊師ソーバナ大長老— は 1949年11月10日にラングーンのシュウェボにいらっしゃいました。 ラングーンHermitage Road(修道通り)Thathana Yeikthaの瞑想センターは1949年12月4日に正式にオープンし、その時マハーシ・セヤドーは15人の信者に正しいSatipaṭṭhāna Vipassanā(サティパッターナ・ヴィパッサナー) 体系の修行法を教え始められました。

センターがオープンした最初の日から、Satipaṭṭhāna Vipassanā(サティパッターナ・ヴィパッサナー)の解説の法話、その目的、実践方法、その恩恵などが、徹底的なトレーニングのコースを受けに毎日のように絶えずセンターにやってくる信者の一群ごとに教授されました。 法話は通常1時間半続き、このような法話をほぼ毎日行うことはセヤドーをお疲れさせていました。 幸いなことに、状況を改善するためにテープ・レコーダーを寄贈することをBuddha Sasananuggaha Associationが申し出てくれて、トレーニングを受けにきた15人の信者に向けてなされた1951年7月27日の法話が録音されました。 その後は、この録音された法話が日々定常的に用いられ、その前にマハーシ・セヤドーによっていくつかの予備的な注意がなされるようになりました。

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サーリプッタ尊者の生涯 (3)

[サーリプッタ尊者][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyanaponika Thera による"The Life of Sariputta"を訳してみたものです。

目次
  • 序文
  • 第I部:誕生から阿羅漢になるまで
  • 第II部:智慧の完成
    • 友情
    • 他の人を助ける者
    • (解脱の)獲得
    • 法輪を転ずる者
    • サーリプッタ尊者の親類
    • 害意のない者
  • 第III部:彼岸
    • チュンダ経(Cunda Sutta)
    • ウッカチェーラ経(Ukkacela Sutta)
  • 第IV部:サーリプッタ尊者に関連する経典
  • 第V部:ジャータカにおけるサーリプッタ尊者
  • 付録:サーリプッタ尊者とマハーモッガラーナ尊者の遺骨についての覚書
  • 注釈

第II部:智慧の完成

友情

もしもサーリプッタ尊者が感謝の念をずっと持ち続けることが注目に値するというのであれば、尊者の友人としての面も勝るとも劣りません。マハー・モッガラーナ尊者とは、幼少のころから友人・相方であり、ずっと親密な関係でいて、そしてダンマについて数多くの会話を交わされました。なかでもとりわけ興味深いのは、サーリプッタ尊者の解脱の過程に光をあてたアングッタラニカーヤCatukka-nipata, No. 167にあります。この経典は、ある時マハー・モッガラーナ尊者がサーリプッタ尊者に会い行かれ、こう話しかけれられたと伝えています:

「友、サーリプッタよ、四つの(解脱への)道程があります:

苦行道・遅通達、
苦行道・速通達、
楽行道・遅通達、
楽行道・速通達

「友よ、この四つの行道のうちのどれで、友よ、執着なく漏から心が自由になったのでしょうか」これにサーリプッタ尊者がお答えになりました:「これらの四つの行道のうち、友よ、楽行道・速通達によってです」

この一節の説明は、もし禅定や智慧の前に、心の汚れを無くすことが、困難なく生じるとき、その歩みを楽行道(sukha-paṭipadā)と呼び、その逆は苦行道(dukkha-paṭipadā)と呼びます。心の汚れを無くした後に、智慧のゴール、道の到達が、もしも素早くなされるならば、その通達は「速」と呼ばれます(khippabhiññā)。その逆は「遅」と呼ばれます(dandhābhiññā)。この経典でのサーリプッタ尊者が言及しているのは、尊者が阿羅漢果を得た時のことです。尊者の最初の三つの道果を得る時については、しかしながら上記経典の注釈によれば、「楽行道、遅通達」です。

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サーリプッタ尊者の生涯 (4)

[サーリプッタ尊者][Access To Insight]

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サーリプッタ尊者の生涯 (3)

[サーリプッタ尊者][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyanaponika Thera による"The Life of Sariputta"を訳してみたものです。

目次
  • 序文
  • 第I部:誕生から阿羅漢になるまで
  • 第II部:智慧の完成
    • 友情
    • 他の人を助ける者
    • (解脱の)獲得
    • 法輪を転ずる者
    • サーリプッタ尊者の親類
    • 害意のない者
  • 第III部:彼岸
    • チュンダ経(Cunda Sutta)
    • ウッカチェーラ経(Ukkacela Sutta)
  • 第IV部:サーリプッタ尊者に関連する経典
  • 第V部:ジャータカにおけるサーリプッタ尊者
  • 付録:サーリプッタ尊者とマハーモッガラーナ尊者の遺骨についての覚書
  • 注釈

第II部:智慧の完成

友情

もしもサーリプッタ尊者が感謝の念をずっと持ち続けることが注目に値するというのであれば、尊者の友人としての面も勝るとも劣りません。マハー・モッガラーナ尊者とは、幼少のころから友人・相方であり、ずっと親密な関係でいて、そしてダンマについて数多くの会話を交わされました。なかでもとりわけ興味深いのは、サーリプッタ尊者の解脱の過程に光をあてたアングッタラニカーヤCatukka-nipata, No. 167にあります。この経典は、ある時マハー・モッガラーナ尊者がサーリプッタ尊者に会い行かれ、こう話しかけれられたと伝えています:

「友、サーリプッタよ、四つの(解脱への)道程があります:

苦行道・遅通達、
苦行道・速通達、
楽行道・遅通達、
楽行道・速通達

「友よ、この四つの行道のうちのどれで、友よ、執着なく漏から心が自由になったのでしょうか」これにサーリプッタ尊者がお答えになりました:「これらの四つの行道のうち、友よ、楽行道・速通達によってです」

この一節の説明は、もし禅定や智慧の前に、心の汚れを無くすことが、困難なく生じるとき、その歩みを楽行道(sukha-paṭipadā)と呼び、その逆は苦行道(dukkha-paṭipadā)と呼びます。心の汚れを無くした後に、智慧のゴール、道の到達が、もしも素早くなされるならば、その通達は「速」と呼ばれます(khippabhiññā)。その逆は「遅」と呼ばれます(dandhābhiññā)。この経典でのサーリプッタ尊者が言及しているのは、尊者が阿羅漢果を得た時のことです。尊者の最初の三つの道果を得る時については、しかしながら上記経典の注釈によれば、「楽行道、遅通達」です。

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サーリプッタ尊者の生涯 (2)

[サーリプッタ尊者][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyanaponika Thera による"The Life of Sariputta"を訳してみたものです。


目次
  • 序文
  • 第I部:誕生から阿羅漢になるまで
  • 第II部:智慧の完成
    • 友情
    • 他の人を助ける者
    • (解脱の)獲得
    • 法輪を転ずる者
    • サーリプッタ尊者の親類
    • 害意のない者
  • 第III部:彼岸
    • 最後にお返しされた借り
    • チュンダ経(Cunda Sutta)
    • ウッカチェーラ経(Ukkacela Sutta)
  • 第IV部:サーリプッタ尊者に関連する経典
  • 第V部:ジャータカにおけるサーリプッタ尊者
  • 付録:サーリプッタ尊者とマハーモッガラーナ尊者の遺骨についての覚書
  • 注釈

第I部:誕生から阿羅漢になるまで

物語は、インドの二つのバラモンの村で始まります。そこは、ウパティッサとコーリタと呼ばれ、都市ラージャガハから遠くないところにあります。私達の知っているブッダがこの世に現れる前に、ウパティッサ村に住む1サーリという名のバラモン人の婦人が、懐妊しました。そしてまた、コーリタ村でも同じ日に、モッガッリという名のバラモン人の婦人も懐妊しました。この二つの家族は、近い血縁関係にあり、七世代に渡ってとても仲良くしてきました。この二つの家族は、妊娠の最初の日から、この将来の母親達に与えるべき面倒を与え、十ヶ月後の同じ日に、両方の婦人は男の子を生みました。命名の日に、バラモンの婦人サーリの子は、その村の一番の家の息子として、ウパティッサと名付けられました。同じ理由で、婦人モッガッリの子はコーリタと名付けられました。

少年達が大きくなると、教育を受け、全ての科学に精通するようになりました。それぞれが五百人のバラモンの若者の従者を持っていました。スポーツやレクリエーションに河や公園に行く時は、ウパティッサは五百の籠に、コーリタは五百台の車に乗って行ったものでした。

さてラージャガハでは、丘の上の祭りと呼ばれるイベントが毎年開催されていました。二人の若者のために席が用意され、彼らは一緒に座り祝賀に参加しました。笑いに相応しい時には笑い、見世物が興奮に相応しい時には興奮しました。そして、追加のショーのご祝儀を渡しました。こうして、二人は、祭りの二日目を楽しんでいました。けれども三日目には、二人の分別が目を覚まし、もはや笑ったり興奮したりしませんでした。初日にしたように、追加のショーのご祝儀を渡したいとも思いませんでした。二人は同じことを考えていたのです:「ここで何を見るべきものがあるのでしょうか。百年もしないうちに、ここにいる人々は皆死にます。私達がするべきことは、救いの教えを探し求めることです」と。

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サーリプッタ尊者の生涯 (1)

[サーリプッタ尊者][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyanaponika Thera による"The Life of Sariputta"を訳してみたものです。

Nyanaponika Theraについては Access to Insightにある紹介文に次のようにあります:。

ニャーナポーニカ長老(ジークムント・フェニガー)は1936年に生まれたドイツからスリランカに移り、ニャンナティローカ長老(1878-1957)の元で比丘として出家されました。1958年にはBuddhist Publication Societyの設立に尽力され、1984年まで編集長を、また1988年に引退されるまで会長を努められました。長老は57回目の雨安居の最後の日に、キャンディ郊外ウダワッタキャレー保安林(the Udawattakele Reserve)内のフォレスト・エルミタージュ(the Forest Hermitage)で穏やかに息を引きとられました。人々に賞賛されている長老の著作としては"The Heart of Buddhist Meditation"、"The Vision of Dhamma"、"Abhidhamma Studies"、(Bhikkhu Bodhiと共著で)"Numerical Discourses of the Buddha"があります[出典: Introduction to "The Vision of the Dhamma"(Kandy: Buddhist Publication Society, 1992)、"For the Welfare of Many" by Bhikkhu Bodhi.]。


目次
  • 序文
  • 第I部:誕生から阿羅漢になるまで
  • 第II部:智慧の完成
    • 友情
    • 他の人を助ける者
    • (解脱の)獲得
    • 法輪を転ずる者
    • サーリプッタ尊者の親類
    • 害意のない者
  • 第III部:彼岸
    • 最後にお返しされた借り
    • チュンダ経(Cunda Sutta)
    • ウッカチェーラ経(Ukkacela Sutta)
  • 第IV部:サーリプッタ尊者に関連する経典
  • 第V部:ジャータカにおけるサーリプッタ尊者
  • 付録:サーリプッタ尊者とマハーモッガラーナ尊者の遺骨についての覚書
  • 注釈

序文

スリランカの多くのお寺では、ブッダの像の両側に二人のお坊様の像があるのをよく見ます。片方の肩に衣をかけ、掌を合わせ敬礼の姿勢でお立ちになっています。その足元には、敬虔な信者達によって足元に花が置かれている時がしばしばあります。

そのお二人がどなたであるかと誰かに尋ねるなら、世尊の二人の筆頭のお弟子である、阿羅漢サーリプッタ尊者とマハーモッガラーナ尊者と教わることでしょう。お二人は、その生涯でそれぞれがお務めになったポジションにお立ちになっています。サーリプッタ尊者はブッダの右側に、マハーモッガラーナ尊者は左側です。19世紀の中頃にSanchiの大ストューパが開けられた時、遺骨室に二つの石の容器があるのが発見されました;北側の容器にはマハーモッガラナーナ尊者の身体の遺骨が納められ、一方南側の容器にはサーリプッタ尊者の身体の遺骨が納められていました。何世紀も過ぎ去り、2000 年以上の歴史が人間の人生の無常のドラマを長々と演じる間、これらはこうして安置されていたのです。ローマ帝国が勃興して滅亡し、古代ギリシアの栄光は遠い記憶になりました;変わりゆく地球の表面に、しばしば血と火によって、新しい宗教が名を記し、しかしそれらは結局、テーベとバビロンの伝説と混ざり合うのみで、そして交易の波は徐々に文明の大きな中心を東から西へ移していきました —一方でブッダの教えを全く聞いたことがない世代が生まれ消えていきました。けれども、このような時代の間をずっと、この聖人達の遺骨の灰は、その聖人達が生まれた地で乱されることなく安置され、忘れられてきました。ブッダのメッセージが広まる時はいつでも、お二人についての記憶は大切にされ、その生涯の記録は世代から世代へ受け継がれてきました。それは最初は口伝でなされ、後に仏教徒の三蔵—あらゆる宗教のなかで最も量が多く詳細な聖典—に書かれました。テーラワーダ仏教の地においては、世尊自身の次に、仏教徒の最も高い尊敬を受けているのが、この二人のお弟子なのです。このお二人の名前は、ブッダ自身と同じくらい、仏教の記録とは切り離せないものです。時が経つにつれて、お二人の生涯の伝承に多くの伝説が折り込まれていても、これは、お二人への常日頃の尊敬による自然な成行きです。

しかも、高い尊敬は証明済みです。ブッダほど、直接の弟子達によく仕えられた宗教の師はほとんどいません。そのお弟子達の中でも最も偉大な二人のうちの一人、サーリプッタ尊者の物語である以下のページを読んでいくと、このことが分かるでしょう。サーリプッタ尊者は、解脱の教理の理解の深さと幅、そして教える能力において、ブッダに次いで二番目の方なのです。サーリプッタ尊者の生涯に関連する説明は、三蔵にはありませんが、聖典のテキスト・注釈書に散らばっている様々な尊者が現れる出来事をつなぎ合わせることは出来ます。その中では、単なる出来事以上のものがあります。というのも、尊者の生涯がブッダの生涯と活動に密接に編み込まれ、きわめて重要な役割を果たされたからです。サーリプッタ尊者自身が指導的な役割を担った時も数々あります—有能な指導者、模範として、思いやりのある、思慮深い友人として、尊者の下に預けられた比丘達の暮しの保護者として、師の教理の敬虔なる宝庫として、Dhamma-senāpati 「法の将軍」の称号を尊者に授けた役割、そして尊者自身については、稀有な忍耐、不動さ、謙虚で公正な思考、言葉、行いのお方、ご自分が受けた一つの親切でさえも生涯を通じて感謝の念で思い出すべきことであったお方として。感情と無知の汚れから自由になった阿羅漢の中でも、尊者は、星が散らばる夜空の満月のよう輝いておられます。

続くページは、深い知性と清らかな性格を持つ、偉大なる師の真の弟子である方の物語を、著者の能力の限りに書き記したものです。この不完全な記録から、完全なるお方、完全に解放され、存在の最も高いレベルまで逹したお方の本質の何か、そういう方が周囲の人々にどのように行動し、話し、振る舞うのかについて、もし読者が得ることが出来るならば、そして、読むことで「このような人にまでなることが出来る」という確信の強さと信を持つこと出来るのであれば、この仕事は価値があることになり、完全に報われることになります。


出典は

The Wheel Publication No. 90/92 (Kandy: Buddhist Publication Society, 1987). Transcribed from the print edition in 1994 by W.D. Savage under the auspices of the DharmaNet Dharma Book Transcription Project, with the kind permission of the Buddhist Publication Society. HTML formatting by Jill H. Button.

ライセンスは以下のオリジナルに準じます:

Copyright © 1987 Buddhist Publication Society Access to Insight edition © 1994.

For free distribution. This work may be republished, reformatted, reprinted, and redistributed in any medium. It is the author's wish, however, that any such republication and redistribution be made available to the public on a free and unrestricted basis and that translations and other derivative works be clearly marked as such.

(日本語訳)無料で配布します。この作品はどんな媒体を通じても再発行・再版・リプリント・再配布して構いません。けれども、著者の望みは、無料で制限のないベースで公に利用できるようにそういった再発行や再配布がされて、翻訳や他の派生物はその旨を明記することです。


もし意味が通らない文があるならば、それは訳の拙いのが問題です。御指摘あれば幸いです。

商用の利用は御遠慮下さい。

初出: Wed April 08 2009 22:07 (+0900)

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Courageous Faith — 勇気としての信(仰)

[ニャーナポーニカ長老][Access To Insight]

( Access to Insight Library にあるNyāṇaponika Thera による"Courageous Faith"を訳してみたものです。)

Courageous Faith —勇気としての信(仰)

信仰は、単に物事の存在や信条教義の正しさを信じることだけではなく、その対象の力を確信することをも意味します。宗教的な信仰とは、この上なくありがたいものの力を信じ確信することであり、特に仏教徒の信仰の場合は、八正道の比類無き力を信じ、その浄化と解脱に効果があることを確信することです。

自分のことを「信者」あるいは「信仰のある者」、—私達の場合は「仏教徒」—と称する人の中でも、善の実際の力に対する本当の信仰を持って、個人と社会の生き方を変えてゆき、高めるような人はさらに稀です。善の力強い流れに自らを敢えて任せる人はずっと少なく、多くは、曖昧な「信仰」の類いではあるけれども、自身の中の悪の力と、世界が強いことを密かに信じています—抗うには強すぎるのだ、と。この世の多くの政治家は同じように信じているように思われます。特に自分のことを「現実主義者」と称する時、悪だけが「現実」である、と明らかにほのめかしているのです。その偉大な力に服従するのが必要なのだと考えているのです。そういうことの是非を吟味しようとしないのであれば、彼らが大したことを達成できなくても不思議ではありません。

確かに、悪と愚かさの偉大なる力を目の当たりにする時、この種の善に対する信仰にはある勇気が必要です。けれども、勇気なしではいかなる進歩も不可能です。進歩とは、満足のいかない個人と社会の現状が生来持っている惰性を克服することなのです。物事と心が持つ生来の惰性と今のままでいたいという抵抗を打破するには疑いなく勇気が要ります。しかし、まさに、この勇気が成功への前提条件なのです。

昔の仏教教理の師達は、勇気が本当の信仰の本質であることを良く理解していました。彼らは、それゆえ、信仰を強く勇気のある英雄に喩えました:荒れ狂う水の流れに飛び込み、岸でおどおどして立ち止まっている人、興奮している人、土手を無駄に行ったり来たりしている人、渡る良い場所について役に立たない議論をしている人々—このような弱い人々を安全に渡らせる英雄です。この喩えは、社会にも個人の内面にも当てはめることができます。社会生活の場合の「弱い人々」とは、指導者に従い支えることを進んで行う人々ですが、けれども自分達では始めることが出来ない人々のことです。個人の内面では、「弱い人々」は精神的な成長に必要な素養が未熟、あるいはそれを補う徳目が伴わない人々のことです。

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Protection Through Satipaṭṭhāna (by Nyāṇaponika Thera) 〜

[ニャーナポーニカ長老][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyāṇaponika Thera による"Protection Through Satipatthana"を訳してみたものです。

Nyāṇaponika Thera(ニャーナポーニカ長老)について

Nyāṇaponika Theraについては Access to Insightにある紹介文に次のようにあります:。

ニャーナポーニカ長老(ジークムント・フェニガー)は1936年に生まれたドイツからスリランカに移り、ニャンナティローカ長老(1878-1957)の元で比丘として出家されました。1958年にはBuddhist Publication Societyの設立に尽力され、1984年まで編集長を、また1988年に引退されるまで会長を努められました。長老は57回目の雨安居の最後の日に、キャンディ郊外ウダワッタキャレー保安林(the Udawattakele Reserve)内のフォレスト・エルミタージュ(the Forest Hermitage)で穏やかに息を引きとられました。人々に賞賛されている長老の著作としては"The Heart of Buddhist Meditation"、"The Vision of Dhamma"、"Abhidhamma Studies"、(Bhikkhu Bodhiと共著で)"Numerical Discourses of the Buddha"があります[出典: Introduction to "The Vision of the Dhamma"(Kandy: Buddhist Publication Society, 1992)、"For the Welfare of Many" by Bhikkhu Bodhi.]。


ある時、ブッダは比丘達に次の物語をお話されました(Satipaṭṭhānasaṃyutta, 19):

昔、高い竹竿の上で曲芸をする二人の曲芸師がいました。ある日、師匠の方が弟子にこう言いました:『さあ、私の肩に乗り、竹竿を登りなさい』。弟子が言われた通りにすると、師匠は言いました:『では、お前は私をよく守りなさい!そして私はお前を守ります!こうやってお互いを守ることで、我々の技を見せることができて、そして稼ぎを得ることができて、竹竿から安全に降りることができるのす』。しかし弟子は言いました:『師匠、それは違いますよ!師匠は御自分をお守り下さい。そして私は自分を守ります。こうして自分を守り、自分を保護することで私達は安全に曲芸を出来るでしょう』と。

「これが正しい方法です」と世尊は仰い、次のように続けられました:

「その弟子が言った通り:『私は私を守ります』—このように気づきを保ち続けること(satipaṭṭāna)を実践するべきです。『私は他者を守ります』—このように気づきを保ち続けることを実践するべきです。自分を守ることで、他者を守ります;他者を守ることで、自分を守ります。

それでは、どのようにして、自分を守り、他者を守るのでしょうか。繰り返し、多く瞑想を実践することによってです(āsevanāya, bhāvanāya, bahulīkammena).

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Seeing Things as They Are (by Nyāṇaponika Thera) 〜ありのままに見ること

[ニャーナポーニカ長老][Access To Insight]

Access to Insight Library にあるNyāṇaponika Thera による"Seeing Things as They Are"を訳してみたものです。

Nyāṇaponika Thera(ニャーナポーニカ長老)について

Nyāṇaponika Theraについては Access to Insightにある紹介文に次のようにあります:。

ニャーナポーニカ長老(ジークムント・フェニガー)は1936年に生まれたドイツからスリランカに移り、ニャーナティローカ長老(1878-1957)の元で比丘として出家されました。1958年にはBuddhist Publication Societyの設立に尽力され、1984年まで編集長を、また1988年に引退されるまで会長を努められました。長老は57回目の雨安居の最後の日に、キャンディ郊外ウダワッタキャレー保安林(the Udawattakele Reserve)内のフォレスト・エルミタージュ(the Forest Hermitage)で穏やかに息を引きとられました。人々に賞賛されている長老の著作としては"The Heart of Buddhist Meditation"、"The Vision of Dhamma"、"Abhidhamma Studies"、(Bhikkhu Bodhiと共著で)"Numerical Discourses of the Buddha"があります[出典: Introduction to "The Vision of the Dhamma"(Kandy: Buddhist Publication Society, 1992)、"For the Welfare of Many" by Bhikkhu Bodhi.]。


Seeing Things as They Are

長い人生の間のほんの一分だけを観察したとしても、生きていることの形の変化はすさまじくて、その描写は出来ないでしょう。それでも、生命としての存在の全てに共通な三つの基本的な特徴に気付くことが出来ます。それは微生物から人間まで、最も単純な感覚から創造的な天才の思考にまでも当てはまります:

無常あるいは変化(anicca);

苦または、満足する(できる)ことがないこと(dukkha);

無我または実体がないこと(anatta).

この三つの本質的な事実は、正しくも世間解(loka-vidū)と呼ばれるブッダによって、2500年以上も前に述べられました。これは、仏教的な言い方では三相(ti-lakkhaṇa)と呼ばれています—生じるもの全てにある不変のしるし、まさに生命そのものの表面に刻まれている"signata"(訳注:模様—ラテン語で斑紋)です。

この三つのうち、一番目と三番目は生命にも生命でないものにも直接当てはまります—すべての形ある存在は、まさに変化を経験し、そして実体を持たないのです。二番目の性質、苦は、もちろん生命だけが経験します。けれども、ブッダは苦の性質を全ての生じる現象に対してあてはめました。それは、生き物にとって、全ての現象は苦を経験する潜在的な原因となり、いずれにしても永続する満足を与えることは不可能である、という意味においてです。このように、この三つは、私達の通常の認識範囲のなかのものも、あるいはそれを超えるものにも等しくついている、真に普遍的な印なのです。

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Thoughts on Dhamma (8/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


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ヴィパッサナー瞑想 (Insight Meditation)

ありのままに見る智慧 (Insight Knowledge)

ありのままに見る智慧(vipassanā ñāṇa)は、心と身体 (nāma-rūpa)の作用が 無常(anicca)、 苦 (dukkha)、無我 (anattā).であることを観察することで身につきます。それは軽く観察するだけでは得られません。作用が起こっているのを、なおかつ観察されないものが何一つないように、深く観察して得られるのです。このように、見る、聞く、嗅ぐ、食べるなどの全ての動作を、それが起きている時に、そして何一つ観察し損なうことがないように、 観察すべきです。

— Discourse on the Hemavata Sutta


稲妻の閃光 (A Flash of Lightning)

稲妻の閃光を見る、としましょう。稲妻が光る瞬間に見るならば、自分自身で見ることになります。心のなかで、その前後に稲妻が光るのを想像するならば、その稲妻の閃光を実際に見たことにはならないでしょう。 ですから、物事が起きている時に実際自分自身で観察して知るように努めましょう。

— Discourse on To Nibbāna via the Noble Eightfold Path

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Thoughts on Dhamma (7/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

実際に訳してみて、分かり難いところもありました。勘違いや間違いがあるかも知れません。お知らせ頂けると幸いです。


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瞑想 (Meditation)

瞑想者への指示 (Instructions to the Meditator )

気づきを育て、ヴィパッサナーの智慧を得るためには、次のポイントをしっかり憶えなければなりません:

  1. 全ての身体の動きを、それが生じた時に、正しく認識すること
  2. 全ての心の動きを、それが生じた時に、正しく認識すること
  3. 心地良い、不快な、どちらでもない、感覚全てを、それが生じた時に認識すること
  4. 心の対象を、それが生じた時に、分析する心で知ること

— Discourse on To Nibbāna via the Noble Eightfold Path


実践を通じて深まる智慧 (Knowledge Deepens Through Practice)

もし道を実践して自分で直接に経験するならば、時間とともに智慧が深まるのが普通です。

— Discourse on The Wheel of Dhamma


始めたばかりの時の疑念 (Initial Doubt)

瞑想をしたことが無い人は疑念を持つかも知れませんし、それは無理もないことです!見たものしか信じないことと、そういう懐疑は経験がないからなのです。私自身も懐疑的な時もありました。その時は、nāma, rūpa, anicca,anattā などに言及しない Satipaṭṭhānaの方法を私は好きではありませんでした。けれども、その方法を教えていたセヤドーは学識のある僧でしたから、試してみようと私は決めました。 最初はほとんど進歩しませんでした。なぜなら、究極の現実とは関係ない方法ではないか、という疑念がまだもやもやしていたからです。

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Thoughts on Dhamma (6/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

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集中力 (Concentration)

集中力の必要性 (The Need for Concentration)

聞いている人に対して、瞑想する対象に集中するのではなくて、心を勝手にさせてリラックスし続けるように教える指導者がいます。彼らが言うには、集中すると心を制限してしまうからだとか。これは、ブッダの教えのように見せかけて、ブッダの指導の違反をしているのです。もしも、そういう指導者の言う通りに心を勝手にさせておけば、好きな思考にふけり、感覚の喜びに夢中になるかも知れません。

— Discourse on the Hemavata Sutta


サマーディ (SamāDhi)

samādhi — 心の集中 — は必要無いと言う人がいます。もし八正道の二つの(智)慧の面、すなわち正見(sammādiṭṭhi)と正思惟(sammāsaṅkappa),を深く考察するならば、生滅することに気付く必要がない、と。これは、samādhiの領域を飛ばしてしまうことです。jhāna-samādhiがまさに得られるならば最も善いのですが、もし上手くいかないならば、瞬間的な集中力(khaṇika samādhi)を身につけるべきです。これは近行定(訳注 upacāra-jhāna)と同等のものです。そうでなければ、それは本当のありのまま見る智慧ではありません。ブッダは言われました:

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Thoughts on Dhamma (5/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

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戒律 (Ethics)

ダンマの光 (The Light of Dhamma)

戒、定、慧 (sīla,samādhi,pañña)が(仏)道へ導くことが出来るのです。 しかし、教えに納得したなら戒律を守る必要がないと言い張る人がいます。こういったリーダーらによっ て、その支持者のためにシンプルで、あるいは簡単な方法を考案したなどと提唱されることがしば しばあります。何と奇妙なことでしょう! ブッダの時代には、ブッダの説教を聞いた瞬間にダンマ の光をただちに見た、知性と分別のある人々がいた例を否定することは出来ません。もちろん、簡 単な解説で四聖諦の意味をすぐさま理解できてしまうugghaṭitaññuや、あ るいは広く解説されたことを聞いて真理を理解できてしまうvipañcitaññu のような天才的な人々もいました。ブッダの時代には、そういった人々はブッダの教えを聞いてい る間に、それほど努力せずにダンマの光を得ました。けれども、普通neyyaの人々のことと なれば、段々と真理を理解していくよう指導されなければなりません。ブッダ自身でさえも、すぐにはダン マの光を見ることはできませんでした。ですから、次に挙げた経典ダンマパダの276偈は、ブッダに 教えられた通りに、よく覚えておきましょう。詳細な意訳です:

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Thoughts on Dhamma (4/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

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五蘊の重荷 (The Burden of the Aggregates)

重荷 (The Burden)

重荷とは何でしょうか?khandhas蘊3が重荷なのです。

誰が重荷を受け入れようとするのでしょうか? taṇhā, 渇愛が重荷を受け入れてしまうのです。

その荷物を投げ捨てることが意味することは何でしょうか? taṇhā の消滅が、そ の荷物を投げ捨てることです。

重いのは五蘊 khandhas.の荷物です。

その荷物を受け取ることが苦です; その荷物を受け取らないことが、幸せに導くのです。

渇愛が、まさに土台から根こそぎ引き抜かれたならば、何の願望は起こりません。古い荷物は傍 らに置かれ、新しい荷物を負わされることはありません。

こうして、Nibbāna、永遠の平和の(確固とした)煉瓦作りの家に入ります。

— Discourse on the Bhara Sutta


この荷の重いこと! (How Heavy Is the Burden!)

この荷のなんと重いことでしょう!人が母親の子宮にはらまれた時、世話しなければならない五 蘊がその人に現れるのです。人間として立派に育つように安全に生まれることが出来るようにと、母 親はその子を当然のように全てから守ります。母親は日常の仕事の時、食事の時、眠っている時など ずっと注意しなければなりません。もし母親が仏教徒であれば、生まれてくる子供のために善行為を するでしょう。

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Thoughts on Dhamma (3/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

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ダンマ (The Dhamma)

真理は一つ (One Truth)

本当に、真理は一つで、不可分でなくてはなりません。このことは心にしっかり覚えておかなければ なりません。近頃は仏法が広く知られていますが、中道、あるいは、八正道に関する教えには、ただ 一つの基礎となるものがなければいけません: 戒・定・智慧の実践と四聖諦です。けれども、ある人 が、実際のダンマの実践に頼ることなく仏教の目的と狙いに達することが出来ると説くならば、私達 は、そういう人は道から外れていると理解するべきです。

— Discourse on To Nibbānavia the Noble Eightfold Path


実践の必要性 (The Need for Practice )

最近、ブッダが実際に教えたことに対しての間違った所説が話題に上りました。それによれば、『智慧は完成した』、そして『いったん智慧が得られたならば、誰もダンマを実践する必要はない』と。こういった所説は、実質的にダンマの実践を拒否すること、そして八正道を否定することになります。実際には、八正道は絶え間なく実践しなければなりません。というのは励むべき(bhāvetabba)修行のセットだからです。そして、それによって仏道の本質に対する洞察力を高めることが出来るのです。努力なしに、自然にやってくるものはありません。それから別の所説として、努力そのものが dukkhaつまり苦であり、それゆえ修行にはげむべきではない、と間違ったことを勧めるものもあります。こういった教義を目の当たりにして、わざわざ八正道に沿って瞑想したり教義を実践したりする者がいるでしょうか。ダンマを実践する者がいなければ、どうやって彼にダンマの光がそそぐと言うのでしょう。そのうえ、仏道の本質への洞察力がないままで、どうやって汚れを取り除き、涅槃の安らぎを得られるというのでしょう。

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Thoughts on Dhamma (2/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

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マハーシ・セヤドー

マハーシ・セヤドー1としての方が良く知られている、ウ・ソバナ大長老は、ビルマ最後の王朝創設の時の首都であった北ビルマのシュウェボから10キロほどのセイックン村で、小作農を雇っている地主のウ・カン・ホゥターとダウ・シュウェ・オクの間に、1904年7月29日にお生まれになりました。

6歳で、村の寺院の学校での勉強を始め、12歳でsāmanera(沙弥)になりソーバナの名を受けられました。20歳になる1923年11月26日にbhikkhuになられました。続く三年間で国の三つのパーリ語試験(初級、中級、上級)すべてに合格されました。

比丘出家されて4年目で、セヤドーは仏教徒の勉学で名声の高いマンダレーに向かわれ、そこで様々な高僧の方々のもとでさらに勉学を続けられました。(出家されて)5年目に、セヤドーはモウルメインに行かれ、タウン-ワイン-ガライ タイク キャウンとして知られる寺院で仏典を教える仕事に従事されました。

比丘出家して8年目に、セヤドーともう一人の比丘は、比丘の最低限の必需品のみ(鉢と三衣など)を持ってモウルメインを去り、明解で効果的な瞑想の実践法を探して廻りました。タントンで有名な瞑想指導者である、ウ・ナラダ尊者に会われました。尊者はミングン・ジェタウン・セヤドー一世としても知られています。ミングン・セヤドーから指導を受け、同時に瞑想を徹底的に励まれました。

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Thoughts on Dhamma (1/8)

[マハーシ長老][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるMahasi Sayadaw による"Thoughts on the Dhamma As Taught by the Buddha in the Pali Canon"を訳してみたものです。

マハーシ長老の法話の数々から選んだ短い言葉を集めてあるものです。

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序文

この本を準備しているさなかに、この本の著者である、ビルマの尊師マハーシ・セヤドーは78歳でお亡くなりになりました。こうして、意図せず — 死というものはいつもそうですが — この本はテーラワーダ仏教の、特にヴィパッサナー(Vipassanā)瞑想の分野で、傑出した同時代の指導者のお一人へ敬意を表する追悼という形になりました。お亡くなりになる少し前から、セヤドーはご自分の、特にヴィパッサナー瞑想についての考えと観察を編纂することに同意していることを伝えておられました。


ここに集めたものは、色んな経典(ブッダの教え)について扱ったマハーシ・セヤドーの説法からとられています。説法はビルマ語でなされ、様々な人の手で英語に翻訳されました。それらの英語訳を含む7冊の本は、1980年にBuddha Sasana Nuggaha Organization of Rangoon ("Sasana Yeiktha") から出版されました。それら7冊から選んで抜粋し、この選集で再掲する寛大な許可を頂きました。ここで選んだものは、若干編集してあり、またそれぞれの抜粋には出典を記してあります。セヤドーの簡単な伝記もこれに含めてあります。

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歩く瞑想の効用

[法話メモ][Access To Insight][瞑想]

Access to Insight Library にあるSayadaw U Silananda による"The Benefits of Walking Meditation"を訳してみたものです。

Sayadaw U Silanandaについては こちらをどうぞ。


私達の瞑想のリトリートでは、瞑想者は気付きを四つの異なる形態で実践します。歩く時、立っている時、座っている時、横になっている時に気付きを実践します。どんな姿勢であってもずっと気付きを持続しなければなりません。気付きの瞑想の主要な形態は足を組んで座っているものです。けれども、人間の身体はこの姿勢を何時間も変えずに耐えることは出来ませんから、座る瞑想と歩く瞑想とを交互に行います。歩く瞑想はとても重要ですので、その性質、その意義と、その実践から得られる効用についてお話したいと思います。


気付きの瞑想の実践は、お湯をわかすことに喩えることができます。お湯をわかしたいなら、やかんに水を入れて、こんろにかけて、そして火をつけます。けれども、火の熱を止めたら、それがちょっとの間でも、そして後でまた熱を加えたとしても、水は沸騰しないでしょう。もし、熱を加えたり、止めたりを繰り返し続けるなら、水は決して沸騰しないでしょう。同じように、もしも気付きにとぎれがあれば、勢いを得ることが出来ず、集中も得られません。この理由で、私達のリトリートでは瞑想者は起きている間はずっと気付きを実践するように指導されるのです。つまり朝起きてから、夜に眠りに落ちるまで。こうして、歩く瞑想は、連続して気付きを育てるために不可欠なのです。


あいにくですが、私はある人が歩く瞑想を批判しているのを聞いたことがあります。そういう人によれば、歩く瞑想からは、効果や良い結果を何も得られない、と。けれども、最初に歩く瞑想を教えたのブッダ自身なのです。大念住経でも、ブッダは歩く瞑想を二回教えています。「姿勢」と呼ばれるセクションでは、比丘は歩いている時「歩いている」と知っている、立っている時「立っている」と知っている、座っている時「座っている」と知っている、横になっている時「横になっている」と知っている、と語っています。もうひとつの「正知」のセクションでは、「比丘は前に進むのと後に進むのを正知している」とブッダは語っています。正知とは観察したものを正しく理解することを意味します。観察したものを正しく理解するには、瞑想者は集中力を得なければなりません。集中力を得るには、気付いていなければなりません。それゆえ、ブッダが「比丘たちよ、正知しなさい」と語っている時は、正知するだけではなく、気付きと集中することでもあることを、理解しなければなりません。こうしてブッダは瞑想者に歩いているとき、「前と後に進んでいる」ときに、気付きと集中、そして正知しなさいと指導していたのです。ですから歩く瞑想はこのプロセスの重要なパートなのです。

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