前の記事/ 次の記事 / 最新 / 2010-05 hohiのPali語学習・作業記録

[マッジマ・ニカーヤ][象跡喩大経]

2010-05-27

目次


日本語訳

1070友よ、もし、その比丘に他が、好ましくなく、不快で、いやなことを行います —拳の感触によっても、土の塊の感触によっても、棒きれの感触によっても、ナイフの感触によっても。彼は、このように知ります—「実に、この身体は、身体においてこのように、拳の感触もまた生じるものです、土の塊の感触もまた生じるものです、棒切れの感触もまた生じるものです、ナイフの感触もまた生じるものです。またこのように、実に世尊によって鋸の喩えの教えにおいて説かれました—『比丘達よ、たとえ両手で引く鋸によって賤しい盗賊達が身体という身体を切り離したとしても、心を怒らせる者はそれ故に我が教えを実践していません』と。そして、私の精進へ励みは不退になり、気づきをそなえ気づきを失わず、軽安な身体で静まり、定に入り心が一境になるでしょう。さあ、この身体において、勝手に、拳の感触も生じるがよい、土の塊の感触も生じるがよい、棒切れの感触も生じるがよい、ナイフの感触も生じるがよい。なぜなら、ブッダ達の教えを実践しているのですから」と。

パーリ語

(17/21)

1070 Tañce, āvuso, bhikkhuṃ pare aniṭṭhehi akantehi amanāpehi samudācaranti, pāṇisamphassenapi leḍḍusamphassenapi daṇḍasamphassenapi satthasamphassenapi. So evaṃ pajānāti ‘tathābhūto kho ayaṃ kāyo yathābhūtasmiṃ kāye pāṇisamphassāpi kamanti, leḍḍusamphassāpi kamanti, daṇḍasamphassāpi kamanti, satthasamphassāpi kamanti. Vuttaṃ kho panetaṃ bhagavatā kakacūpamovāde “ubhatodaṇḍakena cepi, bhikkhave, kakacena corā ocarakā aṅgamaṅgāni okanteyyuṃ. Tatrāpi yo mano padūseyya, na me so tena sāsanakaro”ti. Āraddhaṃ kho pana me vīriyaṃ bhavissati asallīnaṃ, upaṭṭhitā sati asammuṭṭhā, passaddho kāyo asāraddho, samāhitaṃ cittaṃ ekaggaṃ. Kāmaṃ dāni imasmiṃ kāye pāṇisamphassāpi kamantu, leḍḍusamphassāpi kamantu, daṇḍasamphassāpi kamantu, satthasamphassāpi kamantu. Karīyati hidaṃ buddhānaṃ sāsanan’ti.

Tañce, āvuso, bhikkhuṃ pare aniṭṭhehi akantehiamanāpehi samudācaranti, pāṇisamphassenapileḍḍusamphassenapi daṇḍasamphassenapi satthasamphassenapi

友よ、もし、その比丘に他が、好ましくなく、不快で、いやなことを行います —拳の感触によっても、土の塊の感触によっても、棒きれの感触によっても、ナイフの感触によっても。

So evaṃ pajānāti ‘tathābhūto kho ayaṃ kāyo yathābhūtasmiṃ kāye pāṇisamphassāpi kamanti, leḍḍusamphassāpi kamanti, daṇḍasamphassāpi kamanti, satthasamphassāpi kamanti

彼は、このように知ります—「実に、この身体は、身体においてこのように、拳の感触もまた生じるものです、土の塊の感触もまた生じるものです、棒切れの感触もまた生じるものです、ナイフの感触もまた生じるものです。

Vuttaṃ kho panetaṃ bhagavatā kakacūpamovāde “ubhatodaṇḍakena cepi, bhikkhave, kakacena corā ocarakā aṅgamaṅgāni okanteyyuṃ

またこのように、実に世尊によって鋸の喩えの教えにおいて説かれました—『比丘達よ、たとえ両手で引く鋸によって賤しい盗賊達が身体という身体を切り離したとしても、

Tatrāpi yo mano padūseyya, na me so tena sāsanakaro”ti

心を怒らせる者はそれ故に我が教えを実践していません』と。

Āraddhaṃ kho pana me vīriyaṃ bhavissati asallīnaṃ, sati asammuṭṭhā, passaddho kāyoasāraddho, samāhitaṃ cittaṃ ekaggaṃ

そして、私の精進へ励みは不退になり、気づきをそなえ気づきを失わず、軽安な身体で静まり、定に入り心が一境になるでしょう。

Kāmaṃ dāni imasmiṃ kāye pāṇisamphassāpi kamantu, leḍḍusamphassāpi kamantu, daṇḍasamphassāpi kamantu, satthasamphassāpi kamantu

さあ、この身体において、勝手に、拳の感触も生じるがよい、土の塊の感触も生じるがよい、棒切れの感触も生じるがよい、ナイフの感触も生じるがよい。

Karīyati hidaṃ buddhānaṃ sāsanan’ti

なぜなら、ブッダ達の教えを実践しているのですから」と。


22x22(2649bytes)上記の日本語訳については著作権は放棄します。御自由にお使い下さい(編集・改変・ソフトウェアに組込むなど)。ただし日本語訳についての質・内容は保証しませんし、この訳をご利用になる上で生じるいかなる不都合に対して、上の日本語訳の作者は責任を負いません。

訳が拙い・不適切なところがあるかも知れません。御指摘あれば幸いです。

初出: Thu May 27 2010 23:29 (+0900)


パーリ語はe-Tipiṭaka Quotation (World Tipiṭaka Edition 2005)のパーリ経典を元にしています