前の記事/ 次の記事 / 最新 / 2009-11 hohiのPali語学習・作業記録

[マッジマ・ニカーヤ][象跡喩大経]

2009-11-15

目次


日本語訳

1061彼は、このように知ります—「実に、この身体は、身体においてこのように、拳の感触もまた生じるものです、土の塊の感触もまた生じるものです、棒切れの感触もまた生じるものです、ナイフの感触もまた生じるものです。またこのように、実に世尊によって鋸の喩えの教えにおいて説かれました —『比丘達よ、たとえ両手で引く鋸によって賤しい盗賊達が身体という身体を切り離したとしても、心を怒らせる者はそれ故に我が教えを実践していません』と。そして、私の精進へ励みは不退になり、気づきをそなえ気づきを失わず、軽安な身体で静まり、定に入り心が一境になるでしょう。さあ、この身体において、勝手に、拳の感触も生じるがよい、土の塊の感触も生じるがよい、棒切れの感触も生じるがよい、ナイフの感触も生じるがよい。なぜなら、ブッダ達の教えを実践しているのですから」と。

パーリ語

(8/21)

1061 Tañce, āvuso, bhikkhuṃ pare aniṭṭhehi akantehi amanāpehi samudācaranti— pāṇisamphassenapi leḍḍusamphassenapi daṇḍasamphassenapi satthasamphassenapi. So evaṃ pajānāti—‘tathābhūto kho ayaṃ kāyo yathābhūtasmiṃ kāye pāṇisamphassāpi kamanti, leḍḍusamphassāpi kamanti, daṇḍasamphassāpi kamanti, satthasamphassāpi kamanti. Vuttaṃ kho panetaṃ bhagavatā kakacūpamovāde—“ubhatodaṇḍakena cepi, bhikkhave, kakacena corā ocarakā aṅgamaṅgāni okanteyyuṃ, tatrāpi yo mano padūseyya na me so tena sāsanakaro”ti. Āraddhaṃ kho pana me vīriyaṃ bhavissati asallīnaṃ, upaṭṭhitā sati asammuṭṭhā, passaddho kāyo asāraddho, samāhitaṃ cittaṃ ekaggaṃ. Kāmaṃ dāni imasmiṃ kāye pāṇisamphassāpi kamantu, leḍḍusamphassāpi kamantu, daṇḍasamphassāpi kamantu, satthasamphassāpi kamantu, karīyati hidaṃ buddhānaṃ sāsanan’ti.

Tañce, āvuso, bhikkhuṃ pare aniṭṭhehi akantehi amanāpehi samudācaranti—pāṇisamphassenapi leḍḍusamphassenapi daṇḍasamphassenapi satthasamphassenapi

aniṭṭhehi:aniṭṭha 「好ましくない」(a. m. pl. instr. abl.) →
akantehi:akanta 「欲しくない・不快な」(a. m. pl. instr. abl.)→
amanāpehi:a(否定)+ manāpa 「喜ばしい、満足な、魅力的な」(a. m. pl. instr. abl.) →「満足できない」
samudācaranti:samudācarati (pl. 3rd.)「行われる・生起する・実行する・言う・話しかける」 →
pāṇisamphassenapi:pāṇi 「手・拳」+ samphassa 「触」(m. instr.)+ pi 「〜も、また」 →
leḍḍusamphassenapi:leḍḍu 「土の塊」+ samphassa 「触」(m. instr.)+ pi →
daṇḍasamphassenapi:daṇḍa 「杖・むち」+ samphassa 「触」(m. instr.)+ pi 「〜も、また」 →
satthasamphassenapi:sattha 「刀」+ samphassa 「触」(m. instr.)+ pi 「〜も、また」 →

友よ、もし、その比丘に他が、好ましくなく、不快で、いやなことを行います —拳の感触によっても、土の塊の感触によっても、棒きれの感触によっても、ナイフの感触によっても。

So evaṃ pajānāti—‘tathābhūto kho ayaṃ kāyoyathābhūtasmiṃ kāye pāṇisamphassāpi kamanti, leḍḍusamphassāpikamanti, daṇḍasamphassāpi kamanti, satthasamphassāpi kamanti

tathābhūto:tathā「そのように」+ bhūta 「実」(m. nom.) →
kāyo:kāya 「身体」(m. nom.) →「(この)身体は」
yathābhūtasmiṃ:yathā「〜のように」+ bhūta(ṃ)(loc.)「如実に」→
kāye:kāya 「身体」(m. loc.) →
pāṇisamphassāpi:pāṇisamphassāpi →「拳の感触もまた」
kamanti:kamati 「歩く・行く・中に入る・感じる」(pl. 3rd.) →
leḍḍusamphassāpi:leḍḍusamphassaā(pl. nom.)+ pi →「土の塊の感触もまた」
daṇḍasamphassāpi:daṇḍasamphassā+ pi (pl. nom.) →「棒きれの感触もまた」
satthasamphassāpi:satthasamphassā+ pi (pl. nom.)→「ナイフの感触もまた」

彼は、このように知ります—「実に、この身体は、身体においてこのように、拳の感触もまた生じるものです、土の塊の感触もまた生じるものです、棒切れの感触もまた生じるものです、ナイフの感触もまた生じるものです。

Vuttaṃ kho panetaṃ bhagavatā kakacūpamovāde— “ubhatodaṇḍakena cepi, kakacena corā ocarakā aṅgamaṅgāni okanteyyuṃ, tatrāpi yo manopadūseyya na me so tena sāsanakaro”ti

vuttaṃ:vutta 「言われた・説かれた」(vuccatiのpp.) →
panetaṃ:pana 「また」+ etaṃ「このように」 →
bhagavatā:bhagavat 「世尊」(instr.) →「世尊によって」
kakacūpamovāde:kakaca 「鋸」+ūpama 「喩え」+ ovāda 「教え・訓誡」(loc.) →「鋸の喩えの教えにおいて」
“ubhatodaṇḍakena:“ubhato 「ふたつの」+ daṇḍaka 「柄」(m. instr.) →「ふたつの柄(の〜に)よって」
cepi:ce 「もし」+ pi「〜でも」 →「たとえ〜でも」
bhikkhave:bhikkhu (pl. voc.) →「比丘達よ」
kakacena:kakaca (m. instr.) →「鋸によって」
corā:cora 「賊・盗賊」(m. pl.) →「盗賊達が」
ocarakā:ocaraka「賤業の」(m. pl.) →
aṅgamaṅgāni:aṅga + m + aṅgāni(ṅga: pl. acc.)「全ての身体を」 →
okanteyyuṃ:okantati 「切り離す」(opt. pl. 3rd.) →「切り離したとすれば」
tatrāpi:tatra 「そこに、そこで」+ api 「また」 →
yo: nom. sin. of ya any person; whoever.→
mano:(from taken by mana in cpds.)→
padūseyya:padūseti 「けがす・怒らせる」(padussati「悪事をなす」のcaus.: opt. sg. 3rd.) →
tena: ind. on account of it; because of it.→「それゆえに」
sāsanakaro”ti:sāsana「教え」+ kara 「なす」+ ti →

またこのように、実に世尊によって鋸の喩えの教えにおいて説かれました —『比丘達よ、たとえ両手で引く鋸によって賤しい盗賊達が身体という身体を切り離したとしても、心を怒らせる者はそれ故に我が教えを実践していません』と。

Āraddhaṃ kho pana me vīriyaṃ bhavissati asallīnaṃ, upaṭṭhitā satiasammuṭṭhā, passaddho kāyo asāraddho, samāhitaṃ cittaṃ ekaggaṃ

āraddhaṃ:āraddha 「開始している・励んでいる」(ārabhatiのpp.) →
vīriyaṃ:vīriya (viriya?)「精進」(n.) →
bhavissati:bhavati「〜がある・存在する」(fut. sg. 3rd.)「あるであろう」 →
asallīnaṃ:asallīna 「不動の・不退の」(a.) →
upaṭṭhitā:upaṭṭhita 「現前した・現在前した」(a. f. nom.) →
sati: f. memory; mindfulness.(f.nom.)→
asammuṭṭhā:a (否定)+ sammuṭṭha 「念を失う」(a.) →
passaddho:passaddha (passambhatiのpp.)「安息の・軽安の」(a. m. nom.) →
asāraddho:asāraddha 「激情がない・冷静な」(a.) →
samāhitaṃ:samāhita (samādahatiのpp.)「入定した、入定した者」 →
ekaggaṃ:ekagga 「一点の・一境の」(a.) →

そして、私の精進へ励みは不退になり、気づきをそなえ気づきを失わず、軽安な身体で静まり、定に入り心が一境になるでしょう。

Kāmaṃ dāni imasmiṃ kāye pāṇisamphassāpikamantu, leḍḍusamphassāpi kamantu, daṇḍasamphassāpikamantu, satthasamphassāpi kamantu, karīyati hidaṃ buddhānaṃsāsanan’ti

kāmaṃ: adv. surely; certainly.→「むしろ・勝手に」
dāni: adv. now.→
imasmiṃ:imaṃ「これ」(loc.) →「この(身体)において」
kamantu:kamati (pl. 3rd. imper.) →「起こるがよい」
karīyati: pass. of karoti is done.「なされている」 →
hidaṃ:hi 「実に・何故ならば」+ idaṃ →
buddhānaṃ:buddha (pl. gen.) →「ブッダ達の」
sāsanan’ti:sāsanaṃ(n. acc.)+ ti →「教えを」

さあ、この身体において、勝手に、拳の感触も生じるがよい、土の塊の感触も生じるがよい、棒切れの感触も生じるがよい、ナイフの感触も生じるがよい。なぜなら、ブッダ達の教えを実践しているのですから」と。


22x22(2649bytes)上記の日本語訳については著作権は放棄します。御自由にお使い下さい(編集・改変・ソフトウェアに組込むなど)。ただし日本語訳についての質・内容は保証しませんし、この訳をご利用になる上で生じるいかなる不都合に対して、上の日本語訳の作者は責任を負いません。

訳が拙い・不適切なところがあるかも知れません。御指摘あれば幸いです。

初出: Sun November 15 2009 13:57 (+0900)


パーリ語はe-Tipiṭaka Quotation (World Tipiṭaka Edition 2005)のパーリ経典を元にしています